今日は名前さんが高専にくる。名前さんから報告メッセージを受け取ったのは数日前のことだ。『五条の仕事はいいの?』って返信すれば、『高専からの正式な依頼』だなんて返事がきた。当主の僕が聞いてないんだけど。僕に会いに来てくれるんだって思ったのに。名前さんに会いたすぎて、もうずっとそわそわしてる。気が逸って午前中の授業もそこそこに済ませて入口まで迎えに行こうとしたのに、校舎を出るところで硝子に呼び止められた。何?僕忙しいんだけど。
「そんなに急ぐような案件?子どもらが五条先生が上の空ってブーたれてたよ」
「今日名前さんが高専に来んの」
「ああ・・・サングラスは?」
「あ、あぶね」
アイマスクじゃ名前さんが見られないところだった。名前さんは五条の仕事で忙しいし、僕はこっちで忙しいからなかなかゆっくり会えない。ちょっとの時間でも彼女を視界いっぱいに映しておきたい。アブナイアブナイ硝子ありがと、てお礼を言うと、硝子は「1カートン」なんて言う。今度外出たときに買ってきてあげる。
「名前さんて、あの雰囲気のある美人?」
「そ。あの綺麗な名前さん」
「五条家の遺伝子を感じる人って感じ」
ところでもう行って良い?僕早く入口まで名前さんのお迎え行きたいんだけど。そう硝子に言うと硝子が何気なくといった様子で口を開いた。
「前から気になってたけど、そんなに好きなの?」
「うん。子どもの頃からだぁい好き」
硝子の問いに真面目に答える。名前さんのことで不真面目なことを言いたくはない。そこに名前さんがいなくても。
物心がつく頃に初めて会った名前さんを今でも覚えている。五条家でも発言力のある分家だからと会った先の彼女は、淑やかで、なのに気怠い雰囲気があった。その気怠さすらも綺麗だった。きっと僕が初めて『綺麗』を感じた人。
「その割に手、出してなさそうだね」
は?なんて?硝子が至極当たり前のことを言っているような顔をしてるけど有り得ない。なんてこと言うの。
「名前さんはそういうのじゃないから」
「当主命令でモノにしちゃえばいいのに」
名前さんはそういうんじゃない。穢れを知らない。そんな言葉がぴったりなのになんてこと言うの、硝子。
「はあ?だから硝子ぉ、名前さんはそういうんじゃないんだって」
何にもわかってない、て硝子に肩を竦めて見せた。名前さんを見たことがあるのにそんな邪な考えが浮かぶなんて有り得ないよ硝子。
「名前さんは言うなれば不可侵、絶対領域みたいなもんなの。誰も触っちゃいけないやつ!」
「馬鹿だな。そう思ってンのは男だけで本人はそんなこと思っちゃいない」
「男とか女とか名前さんに当て嵌めちゃ駄目なんだよ。名前さんに対する冒涜なんだけど」
「五条家の情操教育ヤバくない?」
名前さんは綺麗なだけじゃない。男尊女卑の呪術師の世界で、男だから女だからなんて関係なく努力してきた秀才。そういうところが好きだよ。家の力に依存していないところが名前さんの強みなんだから。
「べつに名前さんに対して何の教育もされてないけど」
「五条の家の人がそうとわからないように五条がその名前さんに簡単に手が出せないようにしたんだろ。五条手早いし」
「手が早いだなんて失礼だな。僕だって段階は踏むよ」
「どーだか」
囃し立てる硝子は、僕をからかってるつもりみたい。そんなのには乗らないよ。名前さんはそういうんじゃない。誰も彼女を穢せない。穢しちゃいけない。そういう人なんだから。
僕をいよいよ本気でからかおうとしてしていた硝子は、急なスマホの着信でどこかへ消えていった。やっと名前さんのところへ行ける。硝子じゃなかったらハッ倒すところなんだけど。
急いで入口まで迎えに行けば、名前さんがもう鳥居のところまできていた。硝子、僕なんなら五条家まで迎えに行きたいぐらいの気持ちだったのに、名前さん鳥居まで来ちゃってるんだけど。
「名前さん!」
名前さんが吃驚しないように声を上げれば、気付いた名前さんが柔和に笑ってくれる。腕を上げてぶんぶん振れば、名前さんが控えめに手を上げて振り返してくれる。可愛い。好き。ててて、と下駄で健気に駆け寄って来てくれるところがまた可愛い。からころと鳴る下駄すら可愛い。僕が行くから待っててよ。
「あら、今からおでかけ?」
「まさか!名前さんがくるのに出掛けるわけないじゃん!名前さんのエスコートをするのは僕しかいないよ」
着物の名前さんに手を差し出すけれど、名前さんは僕の目の前で柔和に笑うばかりでその手をとらない。飛んだ方が早いよ、て言うけど名前さんが首を軽く左右へ振る。
「今日は歩きたい気分なの」
つれない。そういうところ好き。嘘。全部好き。実は朝が弱くて完全に目が覚めるの昼頃なところも好き。だから今日昼から高専来たんだよね。隠してるつもりなんだろうけど僕の目は誤魔化せない。大丈夫それ気付いてるの僕だけだから。他のヤツは気付いてない。気付いてるヤツがいたらぶん殴りたいんだけど。そういうのわかってるのは僕だけで良い。
飛ぶ口実があったら名前さんに触れるのに、て思わず口が曲がる。不満、て顔を名前さんに見せると、彼女は少しだけ困った顔をした。この感じなら僕の小さなお願いぐらい聞いてくれそうだ。僕がもう一回名前さんに手を差し出すと、彼女はきょとんとした。きょとん顔も可愛い。
「エスコートしたいって言ったじゃん。手ぐらい良いでしょ」
「飛ばないなら」
ふふ、なにかと思ったら、て少しおかしそうに笑う名前さんがとびきり綺麗で可愛い。笑いながら僕の掌にそっと添えられた名前さんの指を離さないように握る。添える指先もその仕草もどこもかしこも綺麗。手入れされた彩りのない指先が更に名前さんの美しさを引き出している。美しいってきっと名前さんのための言葉だよ、て昔言ったら、美しいのは悟でしょう、て返された。そういうことを女性に軽々しく言っては駄目よ、なんてそのとき窘められたけど、名前さんにしか言わないよ、僕。
名前さんの爪を軽く撫でると、ぴくりと彼女の肩が小さく跳ねた。何その反応。可愛い。やっぱりエスコートは必要だ。こんな名前さん、他のヤツに見せらんない。
「学長と話すとき僕もいようか?」
「いつから五条の当主は私に過保護になったの?子どもじゃないわ。手を繋ぎたがるあなたよりは大人よ」
名前さんが僕を子ども扱いする。名前さんだけだよ、僕をそんな風に扱うの。僕は名前さんを心配してるだけで子ども扱いなんかしていないのに。
「悟」
「何」
ほんの少しムッとしていたら、名前さんが柔らかい声で僕を呼ぶ。傾いた気分が嘘みたいに吹っ飛んだ。もっと呼んでほしい。
「あなたまるで花弁みたいね」
「そこはナイトって言ってよ」
「綺麗なあなたにぴったりだと思うけど。ナイトなんて禍々しそうなものよりよっぽど似合ってる」
そんな可愛らしいものに僕を例えるなんて、もっと雄々しいものにしてよ。そりゃあ小さいころから僕を見てる名前さんからすれば、可愛いのかもしれないけど。名前さんは、いよいよ傾いだ僕の機嫌を宥めようと頬を優しく撫でてくる。
僕がさっき子ども扱いしたと思った腹いせなのかな、名前さんからの子ども扱いが止まらない!でもそれよりも名前さんから触れられることが嬉しくて、彼女が触りやすいように軽く屈む。頬でも頭でも何処でも撫でて欲しい。優しい名前さんの手が心地良い。
「名前さんの手、柔らかいね」
「そう?他の子よりはごつごつしてると思うけど」
これでも鍛えているのよ、と今度は名前さんの気分が傾ぐ。知ってるよ。名前さんが努力してることなんて知ってる。その努力で手に豆が出来ていたことも知ってる。女の子らしくありなさい、て女を求められるから、その豆を何とかしようとしっかりハンドケアをしていることも知ってる。全部努力して鋼の鎧を纏っていること、僕はずっと前から知ってる。そうやって凛として美しく立ち続けている名前さんのことを僕以外誰も知らない。僕以外のヤツが知った顔でその隣に立つなんて虫酸が走る。なんで一瞬そんなことを考えてしまったんだろ。嫌すぎる。
「ねぇ、僕が花弁だって言うなら、僕が『良い』って言わないと、婚約も結婚も誰ともしちゃ駄目だからね」
心の中がひしゃげてそれが顔に出そうだったから、それを隠して思い切り甘えた声で名前さんにそう言った。また、子どもね、て笑われかねないけど。
名前さんの返しを待っても、彼女は黙ってこっちを見ているだけで何も言わない。さっきまでころころと可愛らしく笑っていたのに、本家で仕事をしているときのような気怠げな雰囲気に思わず首を傾げる。
「名前さん疲れてる?」
「そうね、少し」
「今日はもう高専泊まれば?僕が申請しておくから」
「元々任務で数日滞在するの。申請ならもうしてる」
「それ僕初耳なんだけど」
「今言ったもの」
「荷物は?ハンドバッグだけじゃん」
「数日分あるのよ。今日着くように本家から送ったわ。足りないものは出掛けるついでに買ってくる」
「僕も行く!」
「駄目よ、仕事があるでしょう?」
「ない。たった今なくなったよ」
「こら」
名前さんが優しく窘めてくるけど、そんなんじゃ僕言うこと聞かないから。泊まることを隠してたのも気に入らない。そりゃ良い大人がいちいちお互いの行動なんか報告しないだろうけど。名前さんが僕の頭に手を伸ばしてくるから少し屈む。よしよしよし、なんて頭を撫でられたって誤魔化されてあげないよ。ふわふわで犬みたい、だなんて今度は犬扱いだよ。もう拗ねた。もっと撫でて。