The boundary line is not visible to me.
全ての授業が終わってすぐに掛かってきた一本の電話は、警視庁捜査一課に属する目暮警部からの捜査協力の要請だった。
ホームルームも受けずに学校を飛び出した新一が訪れたのは、杯戸シティホテル。偶然にも今日が四月一日だと気づいてしまえば、思い出すのは偽りの姿で白き幻影と初めて対面したその夜の出来事だった。
鮮明に甦ってくる過去の情景に、まだほんの一年前のことだというのに懐かしさを覚え、新一は気紛れに屋上へ上がってみることにした。早々に事件を解決へと導き、警察に暇を告げた後すぐに、以前は小さな体で懸命に駆け上がった階段を、今は本来在るべき姿でゆっくりと上っていく。
屋上へと続く扉を開けて、新一はぎくりと肩を揺らした。日も落ちきってすっかり闇に染まったそこに、先客がいたのだ。
暗いせいでよく見えないことに加え、上下黒い服を着ていて輪郭さえ曖昧な人影が、新一に気づいたのだろう、不意に振り返った。
だがやはり暗くて判然としない。慎重に人影に近付いていくと、相手は男で、新一とそう変わらない若い年頃であると知った。
胡乱げな様子を隠しもしない新一に向かって愉しそうな笑みを浮かべるその顔は何処か新一自身に似ているが、あちこち奔放に跳ねた収まり悪い黒髪と、こちらを真っ直ぐに見詰めてくる深い紫紺の双眸が、己とはまるで別人であると同時に得体の知れない雰囲気を感じさせる。
男は浮かべた笑みを更に深めると、新一に向かって軽い口調で言った。
「こんばんは。奇遇ですね、名探偵」
「…オメーなあ…。少しは誤魔化すとかしろよ」
それ、素顔だろ。
冷涼とした気配を隠しもせずにのたまう男に、新一は呆れて溜息を吐いた。
慇懃無礼な口調に、夜空に凛と浮かぶ月のような気配。目の前に立つ黒ずくめの男が、犯行時には正反対の色を纏う世界的怪盗であると何よりも証明している。
捕まえようと思えば出来そうな距離だ。だがそう簡単にはいかないのだろう。何せ目の前の男は、確保不能とまでいわれる大怪盗だ。それにもし捕まえられたとしても、この男が本当にキッドだと示す確たる証拠は無い。
何よりこれだけ堂々と居直られては、捕まえる気も失せるというものだ。
「なにをいまさら」
怪盗も捕まるとは微塵も思っていないらしい。動揺の欠片も見当たらない。
そもそもこの時間に、普通の高校生には所縁は薄いだろうシティホテルの屋上に一人でいる時点で怪しすぎる。
加えて今日という日。
この場所でキッドと初めて相見えた時、年齢はまだ若いだろうと推測していたから、これらを踏まえた上で男の正体を考えれば、自ずと答えは導き出される。名探偵と謳われた新一なら尚更だ。
だからこそ、下手な言い訳など無意味だと、怪盗は知っているのだ。
しかし、そうすると疑問が残った。
「こんなところで何やってんだ」
犯行予告は出ていない。怪盗は素顔のうえに私服。おまけに一人で何をするでもなくぼんやりと月夜なんぞを見上げている。
何の目的も無く訪れるような場所ではないから、きっと何か理由があってわざわざ此処まで出向いたのだろう。
だとすればそれは一体何なのか。怪訝を隠しもせずに尋ねておいて、しかし実のところ新一は、それが何と無く解るような気がしていた。
新一だって、偶然このホテルが殺人現場になったからとは言え、今日という日でなければわざわざ屋上まで上がって来たりはしなかった。事件解決をみて警部達と一緒に警視庁へ戻り、犯人の事情聴取やらなにやらに付き合っていた筈だ。
怪盗の方とて、まさかこのホテルで殺人事件が起きて新一が呼ばれ、剰え気紛れを起こして屋上までやって来るとは、思いもしていなかっただろう。きっと変装道具も用意していなかったに違いない。だから素顔を晒したままなのだ。
彼は自ら、確かな意思を持って此処に来た。そうして、恐らく似たようなことを思い此処を訪れた新一と出逢った。
───まるで、あの日と同じように。
真実ただの偶然なのか、それとも互いに引き寄せてしまった必然なのか。運命なんてものは信じちゃいないけれど、ここまでくるといっそ何か因縁めいたものを感じるのも確かだ。
そんな詮無いことをつらつらと考えていたら、新一の鼓膜を小さな音が震わせた。
「……実はちょっとだけ期待してた」
「…キッド?」
台詞の意図を掴み兼ねて、新一は首を傾げた。訊ねるように彼の呼称を呼んだけれど、俯いてしまった怪盗はその表情すら窺えない。
僅かに跳ねた鼓動は、新一こそが期待しているからかも知れない。偶然だろうと必然だろうと、今此処にこうして二人向かい合っている。それが真実だろう。
服装のせいだろうか、怪盗にいつもと違う雰囲気を感じる。何処か淋しそうで、それこそ幻影のように消えてしまいそうに儚い。
常に余裕の態度を崩さないこの男に限って。まさかという思いで、それでも確かめずにはいられなくて、伏せられた顔を覗き込もうと一歩踏み出す。
しかしそれは、怪盗の方が先に顔を上げたことによって阻まれた。
口端を吊り上げ笑うその表情はすっかりいつも通りに戻っている。
(気のせい、か…?)
じっと探るように見つめてしまうのは、もはや探偵の性だ。
そんな新一の視線を絡め取って、今度は怪盗が間を詰めてきた。手を伸ばせば届く距離だ。
「なあ、名探偵」
怪盗が、存外真面目な様子で口を開く。
「今日ならさ、許される気がしねぇ?」
4月1日、エイプリルフール。
嘘を吐いてもいい日。嘘を真実だと言うことも、真実を嘘だと言うことも出来る。
限りなく、真実と嘘とが曖昧になる日。
その中に嘘だと偽り真実を紛れ込ませたとしても、きっと許されるだろう。
だから怪盗は今日此処にいて、来るかどうかも解らない新一を待っていたのだ。
それでも。
「俺は探偵で、お前は怪盗だろ」
「俺には、その境界線は見えねぇな」
新一は瞠目した。
今まで確りと線引きして、頑なに越えることを拒んできた境目を見えないふりで、ふっと笑って言い切った男の、その言葉は真か嘘か。
今日という日であればこそ、いつもは巧みに隠された本心が、尚更解らなくなって戸惑う。
しかし真っ直ぐに注がれるその瞳に灯った熾烈な熱だけは、誤魔化しようもなくただ真実だと告げているようで。
背中合わせに立つ二人は、きっとこういう形でしか交われない。
だから新一は、困ったように、けれど諦めたように、そして嬉しそうに、微笑った。
「逢えて良かった」
KIDが恭しく膝を突き、新一の手をそっと取る。見上げてくるその双眸がとても甘く感じられ、思わず見つめ返すしか出来ない新一に、KIDが小さく笑う。そしてゆっくりと唇を寄せ、手の甲にキスを落とした。
真実と嘘とが曖昧になる日。対極に位置するものの境目さえ曖昧になるならば、今日一日くらいは二人を分かつ確かな境界線は見えないふりで。
徐に立ち上がり腰を抱き寄せられても、新一は大人しくその腕に身を委ねた。
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大遅刻!
先月末にいきなり携帯が壊れて一切操作が出来なくなり、書き途中だった小説とか全部見れないし取り出せないしで、仕方無くデータ修理に出したら今日やっと返ってきました。
4月1日過ぎちゃいました。泣きました。
でも折角途中まで書いてたので続き書き終えました。
上げときます。
快新邂逅おめでとう! そして有難う!
(14/04/07)