遣らずの


開け放した窓から見えるのは、低く垂れ込め、今にも泣き出しそうな鈍色の雲。
厚く重なり合ったそれは、世界を暗澹と変え、何処か幽寂に見せていた。
時刻は未だ太陽も昇り切らない程だが、見上げた空に見える光は無い。
けれども確かに時は流れ、それは部屋に置かれた時計がカチカチと音を立てながら秒針を進める事で現実としていた。
その筈なのに、だがしかし辺りはしんと静まり返り、虫の音一つしない。
そんな事は有り得ないのに、まるで自分独りこの広大な世界に取り残されたような。
時は一秒も刻む事を止め、何も変化しないそこに、一人だけ異質の存在としてある、そんな錯覚。
そんな事は有り得ない。
ああでも、いっそその非現実的な感覚に呑み込まれてみるのもいいかも知れない。
そうすれば、愛する人と別れ一人になった時の、寂寥感や不安感を抱かずに済む。
けれどどうして、現実とは残酷だ。
そんな事は有り得ない。
世界は刻一刻と時を刻み、時代は移ろいゆく。
それが、世の理。

「…銀?」

背後から掛かった声が、現実に留めるように名を呼ぶ。
カラリ、と極力静かに窓を閉め、銀時は振り返った。

「悪い、起こしたか?」

布団に包まる土方に近寄りながらそう問い掛ければ、土方は「いや」と否定の意を示し、ゆっくりと起き上がる。
ちらりと時計を一瞥すれば、それは土方が仕事に行かねばならぬ時間を指していた。

「間に合うのか?」
「ああ、問題ねェ」

素早く隊服を身に纏った土方は、玄関に向かった。
銀時はその後を、着流し一枚簡単に羽織った姿で追う。
───時が経つのは、早い。
あっという間に、銀時と土方との間を作り出す。
仕事なのだから仕方無い。
それは解っているけれど、だが理解と得心とは別物だ。
理解はすれど、納得出来ない事もある。
しかし、真選組を大切に思っている土方の事を知っているから、くだらない我儘で土方を困らせるような事はしたくない。
今日も今日とて、どうか無事生きて還って来い、とその背中を送り出す。


***


不意に、土方の携帯が着信を示して震えた。
すぐに出るのは、それが恐らくは仕事の電話だからか。
小さく漏れ聞こえる声から察するに、相手は恐らく沖田だろう。
土方は怪訝そうな顔をして、沖田と何か会話している。
隊服の一部であるスカーフは未だ巻かれておらず、かと言って携帯電話に片手を塞がれたままでは、一人でスカーフも巻けまい。
土方の、携帯電話を持つ手とは逆の手に握られたスカーフを黙ったまま奪うと、意図を悟ったのだろう土方がこちら振り向く。
変わらず会話を続ける土方の首に、それをするりと巻いてやる。

行くなよ、なんて我儘でしかない。
仕事を優先するのは、詮無き事。それでも、やっぱり納得は出来ないんだ。

(…もう少しだけでも、一緒にいたい)

そう思って見つめていれば、土方はふわりと銀時の髪を撫でた。
それはまるで、幼き子をあやすかのように。
優しい、手つきだった。
それに浸って、気持ち良さに瞳を細めていれば。

「…は? っおい、ちょっと待て!」

唐突に、土方が声を上げた。
表情からも伺えるように、彼は酷く困惑していた。

「ひじかた…?」

どうしたのだ、と視線で問えば。
土方は、そこからすぐの玄関の戸を些か乱暴に開け放った。
途端に届く、雨音。
仄暗い世界にザァーッと音を響かせて降り注ぐ雨足は、一目見ただけでも解る程、激しい。
バケツを引っ繰り返したような、とは正にこの事を言うのだろう。
つい先刻まではまだ辛うじて我慢していた空は、とうとう我慢し切れず泣き出してしまったらしい。
電話は既に切られていた。
土方はそれを確認すると、小さく舌打ちした。

「…総悟の野郎が、」

そこで一旦言葉を区切った土方に、銀時は視線で先を促す。
土方は溜息と共に、再び口を開いた。

「大雨が降ってきて暫くは帰れないだろうから、今日はそのまま万事屋で休めって…」

その言葉に、銀時も表情を胡乱げなものにした。
大雨如きで急に休みをくれるなんて、一体どう言う事か、と。
しかしすぐに、銀時はその言葉に含まれた優しさに気が付いた。
土方は副長と言う立場故、背負う仕事も他の隊士に比べて多い。
ましてそれらには、重い責任感が伴う。
土方は仕事バカだから、その為なら睡眠時間をも削る。
最近は、専ら攘夷浪士によるテロが続き、土方は更に忙しかった。
その所為で十分な休みが取れていない事は、銀時の知る所でもあった。
だからこれは、働き者の副長さんに、この大雨を理由に今日だけでも休んでもらおうと言う、気遣いの結果なのだろう。
そしてきっと、提案したのは近藤だ。
あの沖田が、まさか自ら土方に対して優しさを見せるわけはあるまい。
逞しい見た目に反して、情が厚くお人好しな近藤は、土方との付き合いも長い。
土方の見えない無理を、近藤はしっかりと把握していて。
だからこそ、この機会を逃すまいと、雨が降ってすぐにこうして電話を寄越したのだろう。
そのさり気ない優しさに、銀時はふっと笑みを浮かべた。
未だ納得し切れていない様子の土方に向き直り、なぁ、と声を掛ける。
それに振り向いた土方は、眉間に皺を刻んでいた。
本当にこの男は、どうしようもない仕事バカだ。
けれど、自分はやっぱり、そんなところも含めてこの男を好きなんだ。
滅多に見せてなんかやらない優しげな微笑をふわりと浮かべて、銀時は土方の瞳を真直ぐに見据えた。
驚きに目を瞠り動きを止めた土方に、銀時は苦笑を零す。

「じゃあさ、折角だから、休んでいけよ」

雨が止んだら、土方はきっと、仕事に赴くのだろう。
それでも、少しでも長く、一緒にいられたら。
逡巡した後、部屋へと引き返す土方の背中を眺めて、銀時はまた笑みを浮かべた。
愛されてるなお前、と。それにいまいち気付かない土方に胸中で投げ掛けて、開け放されたままの玄関を見遣る。
相変わらず激しく降り注ぐ雨は、まるで土方に行かないでくれと請う、銀時自身の思いを表しているかのようだ。
それはきっと単なる錯覚に過ぎないのだろうが、何れにせよ、一緒にいられる時間が延びた事は事実である。
土方が仕事へ赴く直前になって唐突に振り出した雨に僅かばかり感謝しながら、銀時は戸を閉めて、同じく部屋へと踵を返した。




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遣らずの雨

出掛けようとする人を行かせない為であるかの如く降り始める雨。
(08/02/09)


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