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愛、転じて哀



日が沈むのがずっと早くなった。家まで自転車をかっ飛ばし、ハンとジンを連れてランニングがてらまた学校へと戻る。先生たちも慣れたのか、私たちを見かけると「昇降口に水用意しといてやったからなー」と言って通りすがりにハンとジンを撫でて行くほどだ。さすが我が家のアイドル。中高年のハートなどいとも容易く打ち抜いてしまったではないか。ついでに成績を上げる打診をしに行こうかと思ったが、さすがにそれはやめておいた。

明日香ちゃんはすでにカメラや三脚の用意を終え、昇降口の傘立てに腰かけて待っていた。その横には先ほどの先生が用意してくれたものと思われる水がある。今日も撮影は長い。たっぷり飲んでおいで。


「お疲れー。さっきさーやに会ったよ」
「女バスは今日外周だっけ?」
「そうそう。さーやと春菜だけしりとりしてた」
「喋りながら走る元気があるのはあの二人くらいだろうねえ…」


実際、試合中は常に声を出しているし、我が校の校風が「生徒の好きなようにやらせる」といった感じなので喋りながらでもペースさえ落とさなければ顧問も文句は言わないらしい。そして私たちも「生徒の好きなようにやらせる」の延長で、こうして写真を撮らせてもらっているわけだ。


「で、今日はどこで撮るの?」
「裏の草むらの前。昨日まで廃棄のハードルとかが積んであったんだけど、さっき見たらなくなってたからさ」
「ういっす、了解。ハン、ジン、行くよ」


空になった皿と二つのリードをまとめて持ち、空いた方の手でレフ板とレジャーシートを抱える。明日香ちゃんは首からカメラを下げ、右手には三脚、左肩には替えのレンズ類と大荷物。えっちらおっちらと移動し、広げたレジャーシートに荷物を下ろして一呼吸。

ここでまず、明日香ちゃんが撮りたい写真の内容を聞く。ノートに大雑把に描かれたイラスト。横には箇条書きで視線外す、引き、ハスキー手前、前後の立体などなど、明日香ちゃんの覚え書きが書き殴られている。

一緒に作品を作るのだから、どちらかの一方通行ではなく、きちんと意識の共有をしたいとは明日香ちゃんの言。だから撮影前にはいつもこうしてどんな写真を撮るかを確認する。


「ここは意外と陽が差すから、どちらかというと明るめの写真を撮りたいんだ」
「一緒に遊んでるような感じ?」
「そうそう。遊んでるような戯れるような感じ」
「走ったりとかは」
「あ、どっちかと言うと茂みの中を探検みたいなのがいい」
「おっけーおっけー。なんとなく分かった」


確認が済んだところで撮影準備。明日香ちゃんは三脚やレンズ、カメラの設定などをいじり、私はハンとジンの首輪を外して身なりを整える。髪は跳ねてない。リボンの形も直した。靴下の長さもそろってる。顔は…まあ仕方ないとして。


「こっちは準備できたよー」
「んー。よし、じゃあまず目線向こうで、立ったまま何枚か」


ここから言葉数は一気に減る。シャッターを切る音、草の揺れる音、少し遠く聞こえる部活動の声。たまに体の向きを変えて、今度は座って、ハンはもう少し前、ジンは立って、といくつか指示が出る以外は口をつぐんだままだ。

普段は私も明日香ちゃんも騒がしい部類に入るものだから、以前たまたま通りかかった先生に「お前ら授業中もそれでいろよ」とお小言をいただいたりした。もうちょっと褒めるとかさあ、と二人で反論したことも記憶に新しい。

シャッターの連続音。遊びたそうにするハンの首を私が撫でる。レンズを替えて、明日香ちゃんが地面に寝転がる。何枚か撮った後に画面を確認し、カメラの設定を直して再びファインダーを覗き込む。

この作業を何度も繰り返している内に、段々と日が傾いてきた。橙色に変わった陽の光は辺りを燃えるような色に染め上げる。ハンとジンの毛も、陽に透けて眩しいほどに輝いていた。


「二匹とも佳澄にすっごい懐いてるよね。いつから飼ってるの?」


陽射しが変わったことで撮る写真を変えたのか、明日香ちゃんはカメラを構えたままそんなことを聞いてきた。ハンとジンが我が家へ来たのは私が小学校四年生の頃。テレビで見たシベリアン・ハスキーに一目惚れして、どうしても飼いたいと駄々をこねたのがきっかけである。


「うちに来たときは片手で持てるくらいちっちゃかったんだけどね」
「あれ?ハンとジンって同い年だっけ?」
「うん。よくジンがお兄さんと間違われる」
「だろうねー。私もそうだと思ってたもん」


ハンはもともと手が小さい。だからジンに比べて小さいままでも不思議に思わなかった。それにハンもジンも格好良くて可愛い。病気で小さいわけではないので、なんの問題もないのだ。

一方、ハンとジンはというと何度も名前を呼ばれて気になったのか、私を見上げてきょとんとした顔をしている。ああ、顔が怖いと言って避ける人の気が知れない。こんなにも可愛いのに、もったいない。


「ペットもいいなあと思うんだけどねー。私は駄目だな」
「え、なんで?」
「看取る勇気がない」


シャッター音は、途切れない。しかし撮影に集中していた私の気持ちは、そこで一旦途切れてしまった。

犬の寿命は、人よりも短い。シベリアン・ハスキーの平均寿命は十二歳から十五歳ほどと言われている。つまり、ハンとジンはすでに一生の三分の一ほどを過ぎたことになる。当然、私はいつかハンとジンと別れなくてはならない。これは変えようのない未来だ。いつかは絶対に来る。先に、逝ってしまう。


「たしかに、それを考えるとしんどいよ」
「うん」


静かな相槌。足元に擦り寄るハンとジンと視線を合わせようと、私はその場にしゃがんだ。夕日が暖かくて、だけど少し感傷的になってしまう。

いつまで一緒にいられるだろうか。いつまで一緒に遊べるだろうか。いつまで私の声に応えてくれるだろうか。例えばすべての終わりが十年後だとしても、小さな終わりはそれより先にひとつずつ訪れるはずなのだ。決して、遠い未来などではない。

…でも、だからこそ、一緒に過ごす一分一秒を大切にしたいと思える。悪戯をされて困ったこともあった。母に怒られるのは私で、その後片付けもさせられた。顔も見たくないと思ったりした。

だけど、そんなことも全部ひっくるめて、私は、


「愛しくて、たまらないんだよね」


愛しい。愛しい。その言葉が一番しっくりくる。まだ来ない未来と、過ぎた過去から溢れる思い出とで、細めた目からは涙が落ちた。私の髪を鼻先ですくうようにして遊ぶハン。撫でてもらおうと頭を押し付けてくるジン。やっぱり私はこの子たちと出会えて幸せだ。私は噛みしめるようにもう一度、レンズの向こうの明日香ちゃんに向かって“愛しい”という言葉を繰り返した。

…と、この日は少々センチメンタルな気分で撮影を終えたのだが、抜け目ない明日香ちゃんに泣き顔をしっかり撮られていたことを後になって知った。そして、この写真を大判で出力されて絶叫する羽目になるのはもう少し先のことである。




愛、転じて哀

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