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優しく笑う人



真夏の天気予報は見たくはないが見ないと困ることが多い。何せ台風をはじめ雨の多い季節であるわけだし、朝が晴れていたからといって夕方ににわか雨が降らないとも限らない。だからお散歩の予定立ても含め、最高気温だけは見ないようにしながら毎日渋々確認していたのだが、この日は違った。そう、私は歓喜していた。


「バンザイ!最低気温二十度バンザイ…!」
「邪魔。テレビが見えない」
「痛い!」


母が朝ご飯を用意している間に見ていた天気予報。「今日は陽が陰り、過ごしやすい一日になるでしょう」とのお天気お姉さんの言葉に小躍りしていたら母にふりかけの小袋を叩きつけられた。後頭部への刺さり具合からして忍者も真っ青なふりかけさばきだったものと思われる。

後頭部を押さえて振り返った私を気にかける素振りは微塵も見せず、母は仏頂面の眉間に皺を寄せた。


「このままだともろ重なるわね」
「はい?」
「台風よ。十三日、長野のおじいちゃんの所に行く日」
「え、ウソ!?」
「後でお父さんにも日にちずらせないか聞いてみないと」


どうやら私にどけと言ったのは台風の予報が見たかったかららしい。しかし父の実家に遊びに行く日と重なるとはこれいかに。母と一緒にお天気お姉さんの困ったような顔とにらめっこし、はっと我に返ったのは占いコーナーに入った頃。こうしちゃおれん。先の台風より目先の二十度、私には一分一秒でも早く家を出て一分一秒でも長くハンとジンと外で遊ぶという使命があるのだ。

善は急げと朝食を掻き込み、着替えを済ませ、寝癖は帽子をかぶることで誤魔化し、先に玄関で待っていたハンとジンを連れて家を飛び出した。やはりハンとジンも明るい内から外に出れることが嬉しいのだろう。いつもなら私にペースを合わせてくれるのに、今日は前に行きすぎては戻ってきてを繰り返している。愛しすぎて涙がちょちょ切れること山の如し…。

遊ぶ前からライフをがりがり削られてようやくいつもの公園へ着くと、そこではしばらく会っていなかったちびっこたちが駆け回っていた。あーっ!と声をあげながら駆け寄ってこられると少々怖いものがあるが、遊び相手を見つけたハンとジンが真っ先に飛び出して行ったので私のところまでは突っ込んでこれなかった。実に優秀なボディガードである。


「佳澄姉ちゃんたち久しぶりー!全然来ないから溶けたかと思った!」
「私はアイスか。みんなは相変わらず元気そうだね」
「うん!」


順番にハンとジンを撫でて舐められ走り回ってを繰り返すちびっこたち。ひと通り構い倒された辺りでフリスビーを取り出し、私は思いっ切りディスクドッグの練習をした。

全力で遊ぶこと数時間、昼食のために一度家へ帰り、午後から鬼ごっこやかくれんぼをして遊ぶこと数時間。涼しいからと調子に乗って遊び倒した私たちは、空腹を訴え始めたおなかに耐えかねて鐘が鳴る前に解散した。通り過ぎる家々からは夕飯の匂いやお風呂の入浴剤の匂いが漂ってきている。今日はたくさん動いたことだし、がっつり食べたい気分だ。いや、やっぱり胃もたれしそうだから冷しゃぶ辺りがいい。うん。素麺は飽きた。

ハンとジンはもちろんのこと、ディスクドッグの中で足場になっていた私も全身泥だらけになっている。このまま家に上がったらまず間違いなく母に怒られる。家に着いた私はまず先にハンとジンの足を洗おうと庭へ向かった。


「ハン、ジン、こっちおいで。足洗っちゃうから」


蛇口をひねると生ぬるい水がこぼれ落ちる。まず、ハンが足を洗う前に蛇口から水を飲もうと全身をびっちゃびっちゃにし、体を振ったことで私をびっちゃびちゃにし、続いてジンが水を浴びながら体を振るという所業に出たため滴るほどにびっちゃびちゃにされた。…ティーシャツが絞れるとはこれいかに。


「あんた、庭で何やってんのよ」
「ハンとジンにやられた」
「タオル持ってくるから、そのまま家に上がるんじゃないわよ」
「へーい」


気温が低いとは言えやはり夏。濡れた状態で風が吹くと涼しくて気持ちいい。まあこれ以上そのままだと寒くなりそうだが。

母が持ってきてくれたタオルで頭を拭きつつ、ハンとジンにタオルをかぶせて押さえつける。よくもやったなー!と仕返しをするように思いっ切り拭いてやると喜んで尻尾を振り始めたではないか。びっしゃびしゃにされて良かったと思った。そうやって遊んでいる私を見かねたのか、庭に面した窓の前でもたつく私の脳天にチョップが落ちる。


「遊んでないでさっさとしろ」
「いでっ」


例の如く、犯人は母である。これから夕飯の支度をするのかエプロンを装備し、汚いからさっさと風呂に入れとのお達し。水浴びをした意味は…。


「そうだ、長野のおじいちゃんたちのところに行く日、ずれたから」
「え、いつ行くの?」
「十六日から。お父さんだけ月曜日から仕事だから十七日に帰るけど」
「ほーん。…私らはいつまでいるの?」
「二十三」
「二十三ねえ……え!?二十三!?長っ!」


庭から家へ上がり、風呂へ向かおうとリビングを横切ると、キッチンへ戻った母がなんともなしにそう言った。十六から二十三、つまり一週間もおじいちゃんたちの家にお邪魔することになる。長野の方が涼しいから私としては万々歳だが、これだけ長く神奈川を離れるとなると深雪と沙耶には連絡を入れておいた方がよさそうだ。

風呂に入る前にメールを送り、夕飯を食べ、せっかく涼しいのだからと腹ごなしに散歩に出たはいいが携帯を家に忘れた午後八時。どうせすぐに出発するわけではない。そう急いで返信しなければいけないようなメールも来ないだろうと、私は構わず夜道を進んだ。


「おみやげ何にしよっかなー」


長野に行くのはいつも観光シーズン。よって私たち家族はあまりおじいちゃんたちの家から出ない。せいぜい一日だけ観光地を見て回る程度だ。何も考えずに行くとお土産を買う機会を逃して道の駅で野菜を…なんてことにもなりかねない。いや、野菜も十分美味しいのだが。

長野といえば野沢菜、おやき、そば、それに真田幸村か。…今聞くと変な感じがする、と顔をしかめながら歩いていたそのとき、暗闇の向こうから真っ白なティーシャツだけがこちらへ向かってくるのが見えた。一瞬にして血の気が引き、まさかそんなバナナと慌てふためく私をあざ笑うようにティーシャツは構わず近づいてくる。ゆから始まっていで終わるあれか、あれなのか。…そんなバナナ。

しかし、申し訳程度に並ぶ街灯の光の中へそれが入った途端、私は言い様のない怒りを覚えた。


「…ってジャッカル先輩かよ!黒いからティーシャツが走ってるのかと思ったじゃないですか!」
「はあ?…ああ、飛川か。というかいきなり失礼だな…」


色の黒いジャッカル先輩本体は暗闇に溶け込み、白いティーシャツだけが妙に浮かんで見えただけの話だった。あと笑うと歯も浮かんで見えた。いろいろと失礼なことを言いたがる口を一度閉じ、こんな時間までジョギングですかという質問に変える。ジャッカル先輩は苦笑いした。やはり白い歯が気になる。


「この前の試合で…って聞いてるのか?」
「聞いてますよ」
「ならいいんだが。…あー、歩きながら話そうぜ。どうせまたこいつらと散歩してたんだろ?」
「まあそんなところです」


隣に並んだジャッカル先輩は肩口で汗を拭い、それとなく私の家の方向を聞いてきた。どうやら送ってくれるつもりらしい。いい人だ。私はジャッカル先輩にも長野土産を買ってこようと心に誓った。


「で、この前の試合がどうしたんですか?」
「…忘れてなかったか」
「忘れてませんでした。試合の内容もたぶん覚えてますよ」
「そ、か。…いや、まあさっきのは聞かなかったことにしてくれ」
「まあジャッカル先輩がそう言うなら」
「はは、悪いな」


最初は気になって仕方なかったティーシャツと歯の白さも、だんだんと目が慣れてくる内にどうでもよくなった。ジャッカル先輩はまるであの日の試合のように汗だくで、今日の気温から考えるとずっと走っていたんだろうということが分かる。

あの日、ジャッカル先輩は試合に勝って、チームは負けた。次こそはという意味なのかとも思ったが、それだけでは答えには足りない気がしたので口にはしなかった。


「ジャッカル先輩にはおいしいもの買ってきます」
「おう、楽しみにしてる」


そう言って笑ったジャッカル先輩。ティーシャツと歯もそうだが、この人は笑顔が一番眩しいと知ったある夏の日のことである。




優しく笑う人

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