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戦う人たち



呆然とする私の耳に音が戻ってきたのは、柳先輩の試合が始まって少し経った頃だった。はっとして隣を見ると雅樹の姿がない。まさか兄の試合が終わったから帰ったんじゃ。慌ててその姿を探せばなんてことはない、雅樹はいつの間にか立海生に混じって前列で観戦しているだけだった。

ダブルスを二つ取って優勝に大手をかけた立海。当然、応援にも熱が入っている。しかし私はどうにも試合に集中することができずにいた。元凶は分かっているがここはあえて名称を伏せさせていただく。ちらりと見た腕時計は幸村先輩の手術まであまり時間がないことを示しているし、ここは柳先輩を信じて逃げ…じゃない、お暇するとしよう。


「雅樹!ま!さ!き!」
「あ、佳澄姉ちゃん正気に戻ったの?」
「ほっとけ。それより私、これから幸村先輩の病院に行くけど雅樹はどうする?」
「んー…もう少し試合見たい」
「じゃあ、あの、あれだ…兄ちゃんと来なさい。一人で帰らせるわけにはいかないから」
「分かった」


素直に頷いた雅樹の視線は会話の合間にも始終ボールを追いかけている。その隙に白髪頭を盗み見て、私は思いっ切り顔をしかめた。ちくしょう、どうしてあんな奴をという怒りにも似た気持ちが沸き上がる。最後にじゃあまたね、と雅樹に一言だけかけてコートを離れた私は人がまばらになった辺りでたまらず座り込んだ。どうにもこうにも自分の気持ちに頭が追いつかないのだ。

これからも恐らく、仁王先輩はハンとジンに会いに我が家へとやって来るだろう。そのとき私はどんな顔をすればいいんだ。笑えばいいのか。…無理だ。今まで以上に可愛げのない態度しか取れない気がする。そもそも今までの態度もなかなかに酷い有り様だったわけだし仁王先輩にどう思われているか分かったものではない。なんかうぜえ奴くらいにしか思われていない気がする。いやしかしそれはそれで楽だな。


「あーもーめんどくせ!なるようになれ!」


と、この辺りで私は考えることを放棄した。通りすがりの少年に変な目で見られた気がするがなるようになれと念じたばかりなので気にしないことにする。過ぎたことはどうしようもない。だから少年、いつまでもガン見するんじゃない。

陽は高い。照りつける太陽は容赦なく私をウェルダンに焼きあげる。すっかりこんがり焼けた頃になってようやく冷房の効いた電車内へと転がり込むことができた。日曜日の中途半端な時間とあって人はまばらだ。空いている席に座り、携帯で病院の最寄り駅までの乗り換えなどを確認していたのだが、沙耶からまだ試合は終わらないのかというメールが入ったので慌てて私一人が今向かっている旨を返信した。

このとき、私はあることをすっかり失念していた。よく考えずとも分かりそうなことではあったのだが、誰もそんなことは一言も言っていなかったので事態に直面してから「ですよね!」と心の中で叫んだ次第である。まあ何が言いたいかと言うと、これだけ大きな手術に家族が立ち会わないわけがなかったということだ。


「あら、精市のお友達?暑い中ありがとうね。今日は天気がいいから大変だったでしょう?」
「い、いえ!そんな!あ、こんにちは!」
「ふふ、こんにちは」


病院に着いたときには手術開始予定時刻の三十分前で、場合によってはもう手術室に入っていてもおかしくないと思った私は急いで病室へと飛び込んだ。しかし、そこで待ち受けていたのは幸村先輩と沙耶だけではなく…。幸村先輩のご両親と思わしき人、それに妹さんらしき姿まであって一瞬にして頭の中が真っ白になった。いまさらだが私はそれほど幸村先輩と親しいわけでもないし、この場に来るべきではなかったのかもしれない。


「はは、佳澄大丈夫?目が泳ぎまくってる」
「沙耶さん…!」


うろたえまくる哀れな子羊…いや、子豚に救いの手を差し伸ばしてくれたのは沙耶だった。まず試合がどういう状況になっているのかを教えてくれるよう頼まれ、ダブルス二つを取って続くシングルスも柳先輩が押していたことを鼻息荒く語る。途中で脳裏にぽん、と白髪野郎の不敵な笑みが浮かんで舌を思いっ切り噛んでしまったが深くは追及されずに済んで良かった。…笑われはしたが。白髪野郎に関しては後で会ったときに殴ってやりたいところではあるものの、顔すらまともに見れる気がしないので潔く諦めることにする。

ベッドに横たわる幸村先輩は柔らかく笑い、じゃああいつらももう少ししたら来るかな、と嬉しそうに言った。それに沙耶が頷き、お母さまが賑やかになりそうねと微笑み、お父さまがそうだなと相槌を打ち、妹さんは私と目が合うなりぴゃっとお母さまの後ろに隠れ、た…。


「葵ちゃん、人見知りなんだってさ」
「…さいですか」
「顔は幸村先輩によく似てるよな」
「…さいですね」


どうやら妹さんの名前は葵ちゃんというらしい。見たところ小学三、四年生くらいで雅樹よりはだいぶ幼く見える。頻繁にお見舞いに来ていた沙耶はすでに幸村先輩のご家族とも顔見知りで、さすがにお付き合い報告まではしていないが会えばそれなりに話すのだという。その中には葵ちゃんも含まれる。肩より少し長い髪は幸村先輩と同じように緩い癖っ毛、ぱっちりお目めに長い睫毛で引っ込み思案とはとんだ美少女である。ぜひともお近づきになりたいのだがその願いは叶いそうにない。泣きたい。

お母さまに勧められ、私は空いている椅子に腰を下ろした。病室にはさまざまな花が飾られている。吊るされた千羽鶴は恐らく私たちが折ったものだろう。月日が経ち、色が少し褪せてきているがガニ股は健在だ。それを見つけて思わずにやけてしまった。

しかし、和やかな雰囲気がいつまでも続くわけではなく。看護婦さんがそろそろお時間ですので、と言って入室するとストッパーを外して幸村先輩の横たわるベッドを押した。それから手術室前まで全員で移動し、わずかに表情を強ばらせた幸村先輩の手を沙耶が握って「大丈夫」と一言だけかけて笑う。いつだったか、私と沙耶でお見舞いに来たときに見た光景を思い出した。あのときの幸村先輩は泣いていた。けど、今は違う。


「じゃあ、行ってくるね」


緩く手を振り、手術室へと消えていく幸村先輩。テニス部のみんなはまだ、現れない。




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