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自覚



一触即発。決勝戦はまさにそんな言葉が相応しい物騒な空気から始まった。立海がどれほどの強さを誇っているのか正直よく分かっていないのだが、周囲の観客が「あの立海相手に勝利宣言しやがった」とざわめいているのだからあの立海とはそれほどまでに強いということなのだろう。


「佳澄姉ちゃん、分かってないでしょ」
「うん」
「でも見てれば分かるよ。本当に強いから」


どこか誇らしげに言う雅樹の顔は、これから繰り広げられる試合への期待できらきらと輝いて見える。第一試合は丸井先輩とジャッカル先輩によるダブルス2。対戦相手は先程のツンツンさんとバンダナを巻いた眉毛のきれいな人らしい。しかしこの人、仁王先輩ばりに目付きが悪いな。

立海のサーブで始まったワンポイント目。試合のリズムを掴むためにもやはり出だしは重要なのだろう。ジャッカル先輩のサーブに対してツンツンさんは非常に強いショットを返してきた。しかし、あろうことか前衛の丸井先輩はそのショットを避けた。避けるか普通と突っ込む間もなくジャッカル先輩がそのボールを拾い、さらに前へ詰めてきたツンツンさんが返し、今度こそ丸井先輩がボールへと触れる。


「低い。ネットかも」
「お、おお?」


雅樹の呟き通り、丸井先輩のボールはネットに触れて跳ね上がった。落ちる先は青学側か、立海側か。もう一度ネットの上へと落ちてきたボール。そして私は我が目を疑うこととなる。


「妙技、綱渡り。どう、天才的?」


じゃねえよ!と叫びたい気持ちを必死に堪えて拳を握る。意味が分からない。ボールがネットの上を転がった。意味が分からない。丸井先輩のドヤ顔もうざいし意味が分からない。ここは解説の雅樹に説明を頼むしかないと懇願の視線を送るも、「俺にも原理は分からないけどすごいよね」で終わってしまった。解説の雅樹さん仕事してください。

それからも鉄柱当てだのと丸井先輩のびっくりプレーが続き、ようやくこれはそういうものだと諦めがつくと視野が少しだけ広がってきた。前衛の丸井先輩はおちょくるような笑みを浮かべたまま、相手の意表を突くコースを的確に狙ってくる。そして一見地味だが、ジャッカル先輩の堅実な仕事ぶりも目を瞠るものがある。丸井先輩が避けたボール、取ろうとしなかったボールを拾い切る守備範囲の広さは常人離れしている。しかし主な仕事が丸井先輩の尻ぬぐいなので地味に見えてしまう。ジャッカル先輩ガンバ。

こうしてあっという間にゲームカウントを重ね、コートの外を通ってボールが戻ってくるというびっくり技が飛び出したりもして私は何事にも動じない鋼の精神を手に入れていた。むしろ悟りすら開きそうになっている。まさかテニスの観戦ひとつでこんな事態になるとは微塵も思っていなかった。ああ、思っていなかったといえば。


「丸井くんかっちょAー!うおー!俺も試合してえ!」


最初は試合を見ることでいっぱいいっぱいで気づかなかったのだが、どうにも聞き覚えのある声がすると思ったらジローさんがフェンスに張りついていた。しかもやかましい。そういえばジローさんは丸井先輩が大好きだったから応援に来ていてもおかしくはないのか。とりあえず今は気づかない振りをするに限るだろう。

試合に戻って…。眉毛さんの足はジャッカル先輩になんちゃらという技をそっくりそのまま返された辺りからすっかり止まってしまっていた。しかし、ツンツンさんの頑張りに触発されたのかそこからジャッカル先輩との持久戦が始まり、とうとうワンゲームを取り返された。なおも続く持久戦。暑さもあって四人とも尋常ではない汗をかいている。そしてゲームの流れが青学側へ傾きかけたとき、あれだけ攻撃に徹していた丸井先輩がその流れを断ち切った。

6−1。審判のコールが響き、立海の一勝目が決まる。最初から最後まで丸井先輩のいいとこ取りでいっそジャッカル先輩が可哀想になるほどだった。ああ、次はいよいよ仁王先輩の試合か。


「仁王先輩って協調性なさそうなのにダブルスなんだね」
「まあそこは俺も否定しない」
「雅樹とダブルスしたりは?」
「…そういえばないや」
「今度頼んでみなよ」
「うん」


第二試合目、ネット前に整列した仁王先輩と柳生先輩を見ながら雅樹とそんな話をしていた。思えばあれだけ一緒にいることが多かったのに、仁王先輩がテニスをするところを見るのはこれが初めてだ。練習ですら見たことがない。おかしい。なぜか変に緊張してきた。ハンとジンといるときとは違う、作ったような不敵な笑み。あれはずっと前に見た笑い方だと、意識の片隅で思った。

青学側のサーブで始まった試合。やはり相手は先手必勝とばかりに攻めてくる。仁王先輩の横顔を見る限り、その笑みが崩れる様子はない。しかしどうにも不思議な動きをしている。丸井先輩のように虎視眈々と機会を伺うでも、積極的にボールを追うでもなく、ただ相手の前衛の前に立つようにして動いているだけに見えるのだ。

そして一球、二球とラリーが続き、相手が仁王先輩をかわすように横へ飛び出した。直後、ボールは鈍い音を立ててその顔面へと叩きつけられる。倒れた選手が起き上がる気配はない。ざわり、ざわりと嫌などよめきが会場を覆い尽くしている。


「あ、相手の選手大丈夫…?テニスボールってそんなにやばいの…?」
「あれくらいのショットなら大丈夫だよ。佳澄姉ちゃん落ち着きなって」
「だって、起きないって、打ちどころが悪かったんじゃ…」
「大丈夫。誰だって顔面に当たることの一回や二回はあるから」
「テニス怖い…!」
「怖くない怖くない」


悟りを開いたような気になっていたが、この事態には思いっ切り動揺してしまった。所詮あの程度のことで悟りは開けないということか。それに対して雅樹の落ち着きようといったら…。すっかりびびってしまった私に飲み物を飲ませ、あやすように背中を叩く余裕まである。この子は将来いい旦那さんかつお父さんになることだろう。あ、ちょっと落ち着いてきた。

一度は救急車までやってくるほどの騒ぎになったのだが、担架の上で逆立ちというアクロバットを披露してくれた青学の絆創膏さんはすぐに試合へと戻った。そして上手く流れを掴んだらしい青学がワンゲーム目を取る。このまま青学のペースになるかと思いきや、柳生先輩の射抜くようなショットがそれを許さなかった。

右に左に傾く試合の流れ。どちらかが手繰り寄せればもう一方が引っ張り返す。常に変化し続ける状況の中で、きっと私には到底分からないような応酬がなされている。そして、傍目には青学側へと流れが傾きかけたように見えたとき、再び射抜くようなショットが“仁王先輩の手から”二人の間へと放たれた。

柳生先輩が“柳生”と呼ぶ。髪を掻き混ぜ、外された眼鏡の下から現れたのは見慣れた鋭い目。本当ならいろいろと突っ込みたかった。だが、それよりも私は妙に“しっくりきた”この感覚に意識を奪われていた。

最初は特になんの違和感も抱いていなかった。二人が入れ替わっていても、仁王先輩は仁王先輩だと思っていたし、柳生先輩は柳生先輩だと思っていた。だが、本来あるべき姿に戻った今、これこそが仁王先輩だと“しっくりきた”のだ。上手く言葉にできないが、私の知っている仁王先輩に戻ったとでも言うのだろうか。それがなんとなく、嬉しかった。


「兄ちゃん、無茶苦茶やるよなあ」
「うん」
「それに付き合ってくれる柳生さんもあれだけどさ」
「うん」
「そんなことやろうと思う兄ちゃんの方が変っていうか」
「うん」
「…佳澄姉ちゃん?」
「うん」


急に視界が開けたような、そんな感覚。どういうわけか仁王先輩から目が離せない。不敵な笑みの中にも、ハンとジンと遊んでいるときのような明るい色が見え隠れしている。きっと試合が楽しいんだ。相手を騙してからかうのが好きで、あんな顔でいつもいたずらをしかけてきて、そのくせ笑い方が子供っぽくないから可愛げがなく見えて、本人もそれを楽しんでいる節があって。

仁王先輩の鋭い目には、今どんな世界が映っているのだろうか。あんなに暑いのが嫌いなくせに、たくさん汗をかいてでも走り回れる世界。合間に現れる真剣な表情は、初めて見る顔。ひとつ、ふたつと思い返す度、どうしようもない気持ちが胸の内に溢れてくる。最初は感情の見えない、薄い笑みを貼りつけていた。それがいつからか違って見えたのは、仁王先輩の表情が変わったからなのか、それとも私の認識が変わったからなのか。

隣に並ぶと背が高くて、歩くのも速くて、ハンとジンといると柔らかくも笑って、それで、それで。




「シベリアン・ハスキーの」




ああ、私はずっと、この人のことが好きだったんだ。




自覚

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