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変化の予兆



いつぞやと同じように薄着にストローハットを被り、保冷剤を包んだタオルや水筒を鞄に詰め、雅樹が迎えに来るのを待っていた。公式の試合を見るのはこれが始めてだ。ジローさんと裕太くんの試合を見たときはベンチに座ってだらけていられたが、今日は他にも観客がいるらしいのでそうもいかない。観客は学校の応援団だったり、父兄だったり、他校生だったり、はたまた高校生やスカウト陣なんてものまでいるというのだから驚きである。とにかく行儀よくせざるをえないだろう。

そしてなんの偶然かは知らないが、今日は幸村先輩の手術日でもある。沙耶は試合は見に行かずに真っ直ぐ病院へ向かうと言っていた。生意気な赤也は「さっさと試合終わらせて俺らも手術前には向かう」と豪語しており、こんなに油断やら慢心やらだらけで大丈夫なのかと一抹の不安がよぎってしまう。しかも奴はつい最近、相手校の選手とトラブルを起こしたというではないか。…やっぱり不安しかない。

リビングのソファに座ってうんうん唸る。試合は勝てるか不安だし、幸村先輩の手術は心配だし、生憎の快晴で暑さも最悪だし、気がかりが多すぎる。そんな私の薄暗い気分などはつゆ知らず、母はハンとジンの朝ご飯を用意しながら欠伸をこぼしていた。


「おはようございまーす。佳澄姉ちゃんいますか?」
「今行くよー。じゃあお母さん、いってきます」
「いってらっしゃい。終わったらメールしなさいよ」
「へーい…っだ!スリッパ投げますか普通!?」
「返事は“はい”」
「…はい」


相変わらず母は言葉ともども攻撃的だった。

玄関で待っていた雅樹は、普段は被っていない帽子を被っている。やはり炎天下での試合観戦はそれなりの準備がいるようだ。私もきちんと帽子を被っているのを見てよし、と頷いていた。

試合会場はここから駅へ向かい、電車を乗り継いで一時間もかからない場所にある。余裕を持って家を出たからか、会場に着くと観客席の人はまだまばらだった。黄色いユニフォームを着た集団と青い団旗を掲げた集団がそれぞれ最前列にいる程度である。私たちは無難に、黄色い集団の数列後ろで観戦することにした。


「ルールは分かる?」
「なんとなくは。でも教えてね」
「はじめからそのつもり。タイブレークまでいったらたぶん佳澄姉ちゃんは分からないだろうし」
「…お願いします」


タイブレークとはなんぞやという言葉をどうにか飲み込む。遠慮のない雅樹のことだ、きっと呆れたような目で私を見て馬鹿にするに違いない。年上としてそれは少々心にくるものがあるのでぜひともご遠慮したい。とりあえず「サッカーでいう延長の後のPK戦みたいなものかなあ」らしいので、そこまで試合が長引いたりしたら暑さで蒸発しそうだなと思った。どうか試合が長引きませんように。

そうして雅樹から試合観戦のレクチャーを受けていたとき、青学側の観客席にいた集団の何人かと目があった気がした。私の後ろには誰もいない。団体戦の選手やマネージャーの深雪はアップに行っているのかこの場にはいないし、私を知っている人間なんて雅樹しかいないはずなのに。試しに体を前後にずらしてみると笑いをこらえるようにして指をさされてしまった。しかも口が「君だよ」と動いている。私か、私なのか。心当たりが全くないのだが、いまさら無視するのは無理そうである。


「知り合い?」
「いや、たぶん知らないと思うんだけど…無視できそうにない」
「じゃあ俺も一緒に行くよ」
「お、おう」


私の不審な動きに気づいた雅樹が頼もしいことに一緒に行くよ申し出てくれた。兄と違って非常にできた弟だと思わず感動してしまう。そして場所取り代わりに飲み物を置いて席を立ち、雅樹と共に青学陣営へと入ると急な訪問者に下級生らしき塊がざわめき出した。私としても状況がよく分かっていないので一緒にざわざわしていたいところである。


「あのー…すみません、どこかでお会いましたっけ…?」
「覚えてないのも無理はないかな。去年の冬頃に一度青学で会ったんだけど」
「墨下の従姉妹、名前はたしか“佳澄”だったか?」
「あ…ああ!あのときの!」


明るい髪色に柔和な笑みをたたえた美少年さんと、度のきつそうな眼鏡をかけた長身さんの言葉でようやく思い出すことができた。以前、私は一度だけ青学へ赴いたことがある。従兄弟のかず兄こと墨下和哉を迎えに行ったのがそれだ。そのときは校門前で待っていたおかげで悪目立ちしてしまい、かず兄の友達だという数人のテニス部員と少しだけ話をしたのだった。

れっきとした知り合いと分かり、すっきりした私とほっとしたらしい雅樹。しかし、顔見知りの美少年さんと眼鏡さんの後ろからツンツン頭の人が何やら慌てたような声をあげたではないか。いったいどこに慌てる要素があったのだろうか。


「ちょ、ちょ、ちょ!去年の冬ってなんすか!?俺てっきり合宿のときだと思ったんすけど!」
「合宿?」
「ほら!立海の仁王さんがスカイプしてて怪しいって言ってたあれっすよ!」
「…と、うちの後輩が言っているんだが」
「人違いだと思います」


しれっと嘘をついたように見えるかもしれないが、この時点ではスカイプのことなどきれいさっぱり忘れていたので私は至って真面目に答えている。まあ、ほんの数秒後には思い出したものの、どうにもこうにも面倒くさい臭いしかしなかったのでそのまましらばっくれることにした。

それに、仁王先輩の名前が出たことで雅樹が不思議そうに「兄ちゃんがどうかした?」などと言うものだから、今度は一斉に雅樹へと興味の対象が移ったのだ。何せ今日の対戦相手の弟。しかもあの胡散臭い仁王先輩の弟ときたもんだ。それなりに付き合いの長くなった私でも“全然似ていない”といつも思うし、さっきも思ったほどなので突っ込まずにはいられないだろう。


「仁王って弟いたんだね、似てないにゃー」
「顔…というより雰囲気が違うのかな」
「たしかにあまり似ていないな」


案の定、青学の人たちも似ていないという言葉を繰り返したのだが、それによって雅樹の機嫌が急降下してしまったので挨拶もそこそこに元いた観客席へと慌てて戻った。雅樹も大概ブラコン、大好きな兄ちゃんに似ていないと何度も言われれば機嫌も悪くなるというもの。ちらりと横目に見ると、罰が悪そうに頭を下げる青学の面々の姿があった。まあ、向こうも悪気はなかったのだ。仕方ない。

それからほどなくして、アップを終えたらしい選手たちが会場へと現れた。観客席には他校生らしき姿も増えた。おまけに応援団どころかチアガールの姿まで現れて思わず二度見した私は悪くないと言えよう。


「おー、お前ら来てたのか!水分補給はまめにしろよ?」
「分かってますよ。丸井先輩も頑張ってくださいね」
「ちゃっちゃと終わらせっから寝るんじゃねーぞ!」
「赤也はもうちょっと気を引き締めろ」
「雅樹、おまんも体調悪くなったらすぐに向こうの日陰に行きんしゃい」
「俺は兄ちゃんほど暑いの苦手じゃないから大丈夫だよ」
「…プリッ」


みんなはすぐに私たちに気づき、それぞれが一言ずつ声をかけていってくれた。深雪は選手用のドリンクを運んだりスコアシートを用意したりと忙しそうだったのだが、下級生たちが手伝ってくれているようなので素人の私が出る幕はないものと思われる。そういえば、仁王先輩は雅樹がいるからかどことなく機嫌がいいように見えた。ハンとジンなしであの顔を見るのは珍しい気がする。


こうして始まった関東大会決勝戦。のちに私の大きな分岐点となる一日の幕開けである。




変化の予兆

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