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殴るように攻める



翌朝、学校で会った沙耶はなぜか浮かない顔をしていた。試合に勝ったばかりだというのにおかしい。気になって理由を聞いてみたが、まだ分からないから明日話すの一点張りで教えてくれなかった。

そして更に一日経った今日。沙耶は昨日にも増して思い詰めたような顔をしていた。


「ど、どうしたの本当に…何があったの?」
「幸村先輩から、返事が来ない」
「それって…結果報告の?」


私の質問に小さく頷いた沙耶。今までもメールの返事が遅れることはあったが、少なくともその日の内には返ってきていたと言う。それが二日も来ない。何か気に障るようなことを言ってしまったのか、あるいは幸村先輩の身に何かあったのか。本人に確認したわけではない以上理由は分からないが、沙耶の口から出る予想はどれもマイナスのイメージばかりだった。このままでは、きっとどちらにとっても良くない。


「沙耶、練習終わったらお見舞いに行こう」
「だけど、」
「幸村先輩ならきっと回りくどいこととか嫌いだし、直接聞いた方がいい」
「…うん。そうだな、うん。ありがと佳澄。ちょっと落ち着いたわ」


そうは言うが、沙耶の笑顔はまだ弱々しい。授業、休み時間、給食、掃除…と、時間が経つにつれ表情は和らいでいったものの、部活に集中できるところまで回復したかと問われると答えにくい。案の定、部活が終わった頃合いを見計らって学校へ向かうと、そこには眉尻を下げて笑う沙耶がいた。

電車に乗って病院へ向かう間も終始無言。かろうじて話したのは「今日はミスが多くて顧問にもたくさん怒られた」という内容のみ。もう本当にこっちが心配で胃が痛くなるくらい思い詰めていて、私は無責任ながら何度も大丈夫という言葉を繰り返した。

病院の中へ入ると、先ほどまでとは反して意を決したように拳を握る沙耶。どうやら思い詰めたのが一周回って一発殴ってやるくらいの気合に変わったらしい。なんかもうそっちの方が沙耶らしくていいや。私は一発やったれと言ってその背中を叩く。そして二人でずんずんと廊下を進んでいたのだが、角を曲がった辺りで思わず足を止めた。目的の病室の空気が…どうにもこうにもおかしなことになっていたからだ。


「もう帰ってくれないか!!」


廊下に立ったままの見知った顔ぶれ。今しがた病室から出てきた真田先輩。次いで聞こえた吠えるような慟哭。赤也と深雪にいたっては泣いているようにすら見える。来たばかりの私たちには状況が全く分からない。声をかけることすらはばかられるような空気だったが、こちらに気づいた真田先輩と視線がかち合ってしまった。


「お前たちも来ていたのか」
「今来たばっかっすよ」
「あの、何があったんですか…?」
「俺たちにも分からん。…だが、もうテニスの話はしないでくれと言われた」


それは、どういう意味なのだろうか。この前来たときはそんな様子は微塵もなかった。早く治してテニスがしたい。そんなことすら言っていたはずなのに、テニスの話をしないでくれなんて。

病室の前で小声で話している間も、中からは幸村先輩の泣き声が聞こえてきている。どうして今なんだ、どうして俺なんだと叫ぶように問う声も。真田先輩たちも今は触れるべきではないと考えたのか、帰る様子はないがその場から動く気配もない。私にも、何もできない。そう思って俯いた矢先だった。…沙耶が動いたのは。


「失礼します」
「な、沙耶!?」
「藍田!今、幸村は…!」
「あたしが話したいのは幸村先輩なんで、真田先輩は引っ込んでてください」


誰もが開けられずにいた扉を勢い良く開き、制止に入った真田先輩をもひと睨みに押しのけ、沙耶は幸村先輩の病室へと踏み込んだ。瞬間、一冊の本が沙耶目がけて飛んできた。しかしそれすら叩き落とし、近づく足を止めることはしない。


「…今は一人にしてくれないか」
「メールの返事をくれなかったこととテニスの話をしないでくれってこと、関係あるんですか?」
「健康体のお前には分からないことだ。…帰ってくれ」
「泣き喚いてるだけじゃ分かんないっすよ。ちゃんと話してください」
「うるさい!!お前なんかに…お前なんかに俺の絶望が分かるか!!」
「だから!!話してくんなきゃ分かんねえっつってんだろ!!」


私は、息を飲んだ。いまだ誰一人として踏み込むことのできない境界線の向こうで、沙耶は幸村先輩と向き合おうとしている。これが良いことなのかなんて分からないし、結果がどうなるかもまだ分からない。それでも私は、沙耶ならなんとかしてくれるような気がした。


「もう…できないんだよ…。成功するかも分からない手術、仮に成功したとしてもその先に…テニスはないんだ…。もう足掻く意味すらないんだよ…」


震えて、かすれて、ところどころしか聞き取れなかった。だけど幸村先輩はもう…テニスをできないということは分かった。真田先輩が帽子を深くかぶり直す。赤也は壁に額を押し当てている。深雪からは抑えきれない嗚咽が聞こえる。それでもまだ、沙耶は背中を向けようとしない。


「諦めるんすか?まだ足掻いてもいないくせに」
「お前に何が分かる…。試合に出て、走り回って、勝利を掴んだお前には俺の恐怖も絶望も何ひとつ分かるはずがない。違うかい?」
「…代われるもんなら代わりたいとは、いつも思ってました」
「なら今すぐ代わってくれよ…!当然バスケなんかできない!可能性なんかひとつもないこの体と!!」


まずい。何がまずいのかと聞かれると答えられないが、長年の付き合いからくる直感が警鐘を鳴らし始めた。騒ぎを聞きつけてやって来た看護婦さんたちは、柳先輩がどうにか言いくるめてくれている。問題はそっちじゃない。でもまだ沙耶を信じたくて、私は扉の向こうからその背中を見つめた。


「ああ代わってやりたいよ!あんたみたいにできない無理だばっかり言ってる奴よりよっぽど可能性がある!!」
「黙れ!!お前にだって治せるわけがない!!」
「治る!!絶対に!!医者に何言われたか知らねえけど、そんなもん鵜呑みにしてバスケが諦められるかよ!!」
「そんなのは他人だから言える絵空事だ!!俺の立場になったとき同じことが言えるのか!?」
「ああ言ってやるさ!何度でも!!」
「はっ、どうだか!どうせお前も無理だと逃げ出して終わりだよ」
「…れ」
「聞こえないよ、そんな声じゃ」
「黙れっつったんだよ」


それは地を這うように低い声だった。もうどっちが女か分からないくらいに。

感情が昂ぶっている幸村先輩に釣られてか、沙耶まで怒鳴り声をあげるようになった辺りからいよいよまずいとは思っていた。そして今、沙耶はとうとう幸村先輩の胸倉を掴むところまできている。ずっと成り行きを見守っていた私と真田先輩も堪らず病室の中へ転げ込んだ。幸村先輩も射殺さんばかりの目で沙耶を睨み返している。まずい。警鐘は鳴り止まない。


「沙耶!待っ、て…」
「ゆき、むら…」


伸ばしかけた手が、空を撫でて落ちる。真田先輩も私も、まるで金縛りにでもあったかのように、そこから先へ進めない。背後でペンの落ちるような音が聞こえた。「な」だの「ま」だのと言葉にならない声がいくつもあがる。そりゃそうだ。


沙耶がキスで幸村先輩を黙らせたのだから。


傾いた頭の向こう側、幸村先輩の目は驚愕に見開かれている。唇が離れようとなおも続く沈黙。その中で最初に動いた…いや、動けたのは沙耶だった。捨て台詞は、


「次また無理っつったらその面ぶっ叩く」


というなんとも沙耶らしい喧嘩腰な言葉だったのだが…。そのまま病室を出て行ってしまって、残された私たちの空気の微妙なことったらない。全員がどうしたもんかと視線を彷徨わせるありさまだ。

そして、そんな私たちを再び動かしたのは片手で顔を覆った幸村先輩の一言。


「今は一人にしてくれないか…」


である。この言葉を聞いた途端、私たちはみな一様に生暖かく笑って病室を後にした。まあ若干一名ほど破廉恥だのなんだの呟いている人はいたが、それは置いておいて。

最初に沙耶が病室へ入ったときも聞いたはずの言葉なのに、今度はずいぶんと違った響きに聞こえる。それはきっと、髪の間から覗く幸村先輩の耳が真っ赤になっていたせいなのだろう。




殴るように攻める

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