卒業論文が
終わらない




焦燥と安堵


その日は朝から何だか気だるくて、熱っぽい感じもあった。仕事は普通に朝からあったし、これくらい軽微な体調不良なら平気だろうと侮ったのがそもそもの間違いである。

「那谷さん、これもコピーお願い出来ますか」
「はーい」

コピー機に張り付いて会議資料の印刷と量産をしていた私に声を掛けてきたのは、隣の経理部のとや……佐藤さんだった。佐藤さんは先日結婚して苗字が戸山から佐藤に変わっている。

「……そういえば、那谷さんて結婚されてましたよね」
「え、あ、はい」
「苗字、変わらなかったんだと思っただけです。すいません」

今のご時世夫婦別姓はさして珍しい話ではない。私もショッピくんもあまりこだわりがなかったからそのままにしているだけで、そういえばなあなあにしたままだったなぁと思い返すくらい。

「2人ともこだわりが無くて……そういえばそうだって思うくらいには頓着してないですね。あ、終わりました」

トントンと書類を整えてから佐藤さんに手を伸ばせば、佐藤さんがコピーしたかった書類が渡される。それを手に取ってコピー機にセットして、印刷のボタンを押した。これで、いんさ、つ





『ごめん、職場でひっくりかえっちゃって今帰ってきた』
『コンビニかスーパーで何か買ってきて』

定時から1時間ほど残業して家路に着こうと思えば、数十分前のLINEに驚きすぎてスマホを投げた。目の前のデスクで同じく残業をしていたトントンさんに頗るビビられたが、そんなことはどうでもいい。ひっくり返るって、倒れたってことだよな?自力で帰宅したなら深刻ではない?でも晩御飯考える気力は無いらしいし、とにかく帰って話を聞かなければ。

「ショッピくんどうしたん慌てて」
「鶫が倒れたらしいんで明日有給おねしゃす」
「あっ、おい!?気をつけて帰れよ!?」

エレベーターを待つ時間すら惜しくて階段を駆け下り、駅前でタクシーに飛び乗る。近所のコンビニで降ろしてもらって買って帰ればいいだろう。
自らの最近を振り返って鶫が倒れた要因を探る。働き過ぎ?いや彼女の職場にはコネシマがいるのだ、働き過ぎの兆候があろうものなら即俺のところに連絡が飛んできただろう。そういえばコネシマは今日出張で撮影を休むと言っていた。あの人がいれば倒れたなんてことがあれば問答無用で連絡が来ていたはずなのに。
抱くのは週に2日までと制限されてから……いや、毎度毎度抱き潰している……。俺のせいだったらどうしよう。

「お気をつけて」

距離がかさんでいくのにも構わず大通りを避けてタクシーを走らせ、近所のコンビニで適当におにぎりと弁当とポカリを引っ掴んで会計する。ひとまずこれだけあれば、風邪薬だとかは家にあるし改めて買いに出れば良いだろう。歩いて2分程の道を全力で駆け抜けてマンションのオートロックを壊す勢いで開けた。

「つ、ぐみ!?」

少々荒っぽく部屋のドアを開けても返事がない。また倒れてるのか、返事も出来ないほど体調がわる、

「あ、おかえり」
「ただ、いま?」

しれっとリビングのドアを開けた彼女の顔色は良いとは言えないが、そこまで体調が悪そうにも見えない。部屋着に着替えてはいるが普通に歩み寄ってくる。え、普通じゃん?

「……おかえり〜」

何とか玄関の鍵を後ろ手に閉めた俺に、珍しいことに鶫が抱きついてきた。酒が入っているのかと思うくらい上機嫌で、でも鶫は酒が入ると泣き上戸になるから単純にめちゃめちゃ機嫌がいい。俺何かやったか?それとも職場で何か……いやそもそも倒れてるんだった。

「体調平気なん?何で倒れて、っていうか今は?」
「同じこと2回聞いたよ今」

抱きしめ返そうと思ったらするりと抜けてしまって、この時ばかりはこの身長差も恨めしい。コート脱いでと催促されて脱げば、彼女はコートを持ってリビングに戻っていく。荷物を持って慌ててその背中を追うと、当然晩御飯は用意されていない食卓が目に入った。いつもこの時間には自分が用意したものが並んでいるか鶫が用意したものが並んでいるから、閑散とした食卓は物悲しい。

「つぐみ、何か怒ってる?」
「え、怒ってないよ。とりあえず荷物置いて座って欲しいな。それともご飯先にする?」
「……座る」

結局倒れた理由も何もかも教えて貰えないまま、渋々椅子に座る。コートを掛けてきた彼女が目の前に座れば小さくため息をついた。

「……えーっと、ね。今日の昼過ぎに倒れて病院行ったんだけど」

昼過ぎに倒れて俺のところへ連絡はいるのは18時過ぎか。緊急連絡先の管理どうなってんねん。今度コネシマに文句を言っておかねば。

「に、かげつ、って」
「へ?」
「だから、2ヶ月」

2ヶ月、て?何が2ヶ月なんだ?いや思い当たる節はあるんだけどいや、え?

「……あっさり出来たね、パパ」

そう言って薄い腹を撫でながら照れくさそうに笑う愛妻の顔を見ていられなくて、テーブルに頭を打ち付ける。
それなりに痛いがそれよりもまず買い物か?ベビー用品て何がいるんだっけ、服にベッドにオムツミルクの消耗品、おもちゃもいるだろうしそれらを一括でしまっておける箱とかあった方がいいだろう。それらを置いておく場所を考えなければならないから部屋の片付けと模様替えをして、いやそれより、は、パパ?2ヶ月?
悪阻っていつから?何したらいいんだ、悪阻のことは頭から抜けていて事前リサーチしてない。妊婦ってグレープフルーツが好きになるとか聞いたことあるけど鶫は柑橘類はみかんくらいしか食べないし、いやでも味覚が変わるなら食べたくなる?ジュースなら好みに合うだろうか。食事や生活習慣も見直すか?母親の食事は胎児の栄養に直結するはずだし栄養バランスと摂取量を考えた3食の計画と睡眠時間の管理、家事は俺が大半請負って鶫はなるべく動かなくて済むように。……ああでもある程度の運動は必要だって聞くしどうするか。

「おーい、ショッピくーん?」
「はっ」
「痛くない?赤くなってるよ」

食卓を挟んで伸ばされた手を取って握りしめる。温かい、俺の好きな鶫の小さな手だ。俺とは違って細くて頼りない手指なのに、な、のに。

「お、れ……パパ、に」
「そうそう。私が母親で、ショッピくんが父親」

子どもが欲しくてそういう行為を重ねてはいた。でもいざ出来るとこんなにも受け入れ難いものか。胸の奥で何かが突っかかって取れなくて、鶫が優しい顔で俺を見るものだからもう、何も言えなかった。この人だけを人の親にするわけにはいかなくて、俺もちゃんと覚悟を決め直さねばならない。

「……あ、りが、と……」

頭の中は人の親になるという未知への不安やこれから先の準備、ずっとずっと先にある家族団欒まで思考が及んでぐちゃぐちゃだ。でも確かに家族が増える喜びやいつか3人で並んで手を繋ぐ楽しみに心が温かくなる。

「ねぇ、私と一緒に、親になってくれる?」
「な、る。良い、父親になる」

堪えきれない涙でボロボロになった俺に笑いながらティッシュを差し出す鶫も泣いていて、これからがどうこうよりも今鶫と同じ気持ちでいることが嬉しかった。
いつかその子が巣立つ時まで、俺も良い親になれるよう精進しなければ。
そう強く思ったある夜の話。


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