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逃げる


 茶の間で煙草を燻らせていると、買い物から帰ったなまえがやって来た。

「ただい……うわっ、くさっ!」
「……」

 不意打ちで吸い込みすぎたのか、げほげほとやや大袈裟なほどに咳をしている。暑い外から帰ってやれやれとため息を吐こうとして吸い込んだら煙だった、というのは確かに嫌かもしれない。
 黙って煙草と灰皿を持って換気扇の側まで行き、スイッチを入れてその場で吸う。最初からこうしてりゃ良かったのか。

「もおー、遅いってそれするの!」
「……すまん」

 素直に謝って一息吸う。吐き出す煙は換気扇へ向けて。
 なまえはドアを開け放し、窓も全開にし、扇風機を外側に向けて、とにかく早く煙を追い出そうとしている。服に臭いがつくのがとにかく嫌だと言っていた。煙が無いのに煙臭いのに腹が立つのだと。
 買ってきた食材を、袋から冷蔵庫へしまいながら、ぶつぶつと文句を垂れている。着替えなきゃいけないじゃん、ついでに汗流しにシャワーでも浴びようかな、あーでも洗濯物取り込んでから……いやでも洗った服に臭い付くかもしれないから後にしなきゃ。などと言うのが耳につく。俺にわざと聞かせているのだ。

「まったくもー」
「……」

 これ以上機嫌を損ねないうちに、と煙草の火を消して部屋を移動する。あれがほとんど“フリ”であることは分かっているが、それでも面倒くさいものは面倒くさい。

「あ、逃げた」
「うるせえよ」

 そうだよ悪いか逃げさせろ。
 階段を上がって二階の自室へ向かう。俺が煙草を吸える部屋は茶の間と自室に限られており、庭とベランダは洗濯物に煙が掛かるかもしれないから昼間は禁止、居間は「換気扇も無いのに」と怒られる。喫煙者は肩身が狭いぜ。

 自室へ避難して、一人掛けソファーに腰を下ろす。側の遮光カーテンが少しそよいでいたから、窓が開いていることに気付く。つい最近マオが出入りしたということだ。ソファーに座ったまま手を伸ばして、ベランダの窓を閉める。この季節は虫が入るから、油断なく閉めなくてはならない。(昨晩はカナブンが飛び込んで来た)
 煙草をもう一本吸おうかと箱を弄っていると、階段を上がる足音が聞こえてきた。なまえがシャワーのための着替えを取りに上がってきたのだろう。俺の部屋の前を通り過ぎて、なまえの部屋へと行くはずの足音は、しかし俺の部屋の前で立ち止まった。

「……?」

 ドアのほうを見れば、猫のために完全に閉めない癖がついた隙間からこちらを窺うなまえ。な、なんだよ。まだ何か文句があるのか。

「お邪魔シマース……」

 そう言って入り、遠慮がちにこちらへ向かってくる。俺の手元の煙草の箱を見て、俺の顔を見て、また煙草を見る。

「……なんだ」
「いや、ちょっと言い過ぎたかなー、と……思って」

 嫌な態度だったよね、と頬を掻く。

「ここってアンタの家なのにさ」
「……まあな」
「だから……ごめん」

 神妙な様子で謝る。いや、別に俺の家だからどうこうとかは、どうでもいいのだが。お前だって住んでいるのだし。当然の主張だと思うから、大人しく引き下がったのだ。

「……えと、じゃそゆことで」
「待て」

 しかしまあ、良い口実ができた。
 なまえに向かって、ちょいちょいと手招きをする。

「えっ、やだ」
「いいから来い」
「うえ〜……臭いつくじゃん〜……」

 今謝ったところだろうがお前。ちょっとは我慢しろ。
 唇を尖らせて、嫌々傍に寄ってくる。目の前に立つなまえに手を差し出し、手を差し出させる。口ではああ言っているが、実は嬉しいのだろう。証拠に頬が緩んでいる。
 掴んだ手を軽く引いて膝へ招く。おそるおそる腰を乗せて、あまり体重をかけないようにしているのを、思いきって抱き寄せる。

「! ちょ、」
「遠慮すんな」
「ぅ、……におい移るじゃんかぁ……」
「どうせこの後風呂に入るんだろうが」
「……そうでした」

 文句を論破してやれば、観念したように大人しくなる。しかし次は暑いだのくさいだのぶつぶつ言い始めたから、流石にイラッとして、なまえの脇に置いた手をわさわさと動かす。

「!? ひへっ、やめっ!」
「文句が多いんだよお前はぁぁぁ」
「ひはははは!! や、やめてー! ごめんなさ、んふはははっ!」

 体をよじって逃れようとするフリ。膝から降りてまで逃げる様子は無い。そういうところが、かわいいって言うんだ。


(170721)
『確かに恋だった』様より
恋する動詞『逃げる』


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