[←] [→] 狼の出る森 町外れの山の麓、木こりを生業とする男と、その家族が住んでいた。優しい母と、無愛想な父と、その二人を両親に持つ愛らしい少女。決して裕福ではないが、慎ましやかに暮らしていた。 ある日、病に倒れた母に代わり、幼い娘が町へ薬を買いに行くことになった。 「寄り道してはいけないよ」 「狼が出るから気を付けなさい」 「暗くなる前に帰りなさい」 くどくどとした注意を、少女は素直に頷いて聞いていく。心配そうな母に見送られながら、初めて行く町へ胸を膨らませ、少女は田舎道を下っていった。 しばらく道なりに進んで行くと、三叉路に看板が立てられていた。少女はそれを見上げて読みました。 『←危険!オオカミが出る道 町へ行く安全な道→』 “オオカミが出る道”は真っ直ぐ広い道を下る方を、“安全な道”は森の中を指しています。看板に従うと回り道になってしまうようなので、少女は少しだけ首を傾げます。ですが、遠回りをしてまで避けなければいけない危険なのだろうと納得をして、看板通りに森の中へと進んでいきました。 森の中を通る道は、昼間でも薄暗く、少女の歩みを遅めます。そこら中から、鳥や虫の鳴き声がして、少女が居ることを報せているよう。引き返そうかとも思いましたが、だいぶ進んできてしまっているので、それも躊躇われます。 すると少し先に、明るい場所があるのが目に入りました。少女はほっとして、そこへ向かいます。 「きれいなお花畑!」 ひなたの少ない森の中、日の光を取り合うようにたくさんの花が咲いていました。少女は先程までの恐怖を忘れて、日の差す花畑へ駆け寄りました。家で寝込んでいる母へのお土産にしようと、ひとつひとつ丁寧に花を摘んでは籠へ入れていきます。 「おっと、こんなところに女の子が一人でどうした?」 声を掛けられてそちらへ振り向くと、男の人が立っていた。左目が隠れて見えないほど帽子を深く被り、銃を背負っている。猟師のようです。 「町へ薬を買いに行くところなんです」 「そうか。この先を行けばもうすぐだ。薬もすぐに買えるだろう」 その言葉に嬉しくなって、少女はすぐに立ち上がりました。男の指差す先へ体を向け、親切な猟師へお礼を言って、少女はそちらへ駆けていきます。その背中を笑顔で見送りながら、猟師も同じ方向へゆっくりと歩いて行った。 しばらく進むと、猟師の言うとおりに集落が見えてきました。森に潜むような様子の家々に、少女が想像していた明るく賑やかな町の面影は無く、立ち入ることを躊躇います。 「おや……小さな子が一人で居るとは」 一番近くの家から出てきたおじいさんが声を掛けてくれました。母の病に効く薬が欲しいと言えば、優しげに笑って薬屋の場所を教えてくれました。集落の長の住む大きな屋敷の手前にある、入り口前に大きな壺が置いてある建物。そこが薬屋だそうです。 優しいおじいさんにぺこりと頭を下げて、少女はそこへ向かいました。 薬屋の近くに行くと、軒下に色々なものがぶら下げてあるのが目に入ります。羽根をむしって血抜きされた鶏、やもりの干物、干し柿、薬草を乾燥させたもの。大きな壺には蓋がされていたけれど、微かに漏れ出るにおいは顔をしかめさせるには十分なものだった。 「ごめんください、薬を下さいな」 開け放たれた扉から中へ声を掛けると、しわくちゃの老婆がのっそりと振り返った。少しだけ驚いたように目を見開いたけれど、次の瞬間にはにっこりと人の良い笑みを浮かべて歓迎してくれた。 「ようこそいらっしゃいね。一人でよぉ来たねぇ」 しわしわの手で手招きして、中へ通される。瓶や袋に分けられた薬が、所狭しと棚に並べられている。火傷や切り傷の薬から、風邪薬、睡眠薬、内臓の病気に効く薬や、痴呆や精神病に効く薬まで、本当にたくさんの薬があるけれど、ほとんどは字が難しくて少女には読むことができなかった。 「肺の病に効く薬はありますか?」 「ああ、ああ、あるとも。どれ、今出してやろう」 棚の引き出しを二つ三つ引っ張って、注文の品を探す。老婆が取り出した薬は、瓶に入った真っ黒な粉だった。 「これを食事の前に、小さじ二杯分、三口に分けて飲みなさい。三日も続ければ見違えるほど良くなるであろう。必ず、食事の前に飲むんだよ」 渡された小瓶を両手で受け取り、代金を払おうと、籠の中へ入れていた小袋を取る。だけれど老婆は頭を振って、しわしわの顔でにっこりと笑った。 「お前のような、かわいらしい孝行者から金は取れん」 「そんな……お金を払わないと、お母さんに叱られちゃう」 「そうさなぁ……代わりと言ってはなんだが、今日はこの村に泊まって行きなさい。訪ねてくるもんも少ない、みなで歓迎しよう」 そう言われて、少女は困ってしまいました。母には「暗くなる前に帰ってきなさい」と言い付けられています。だけど薬のお金を払わずに済むのなら、他にも栄養のあるものを母に買ってあげられるかもしれない。一晩泊まるだけなら、きっと大丈夫。それに、困った顔をしていたら、おばあさんに悲しそうな顔をされてしまったから、断ってしまうのも忍びなかった。 「うーんと……分かりました。今晩はお世話になります」 「おお! そうかい! それじゃあ早速村の者に報せてくるよ」 おばあさんは意気揚々と家を出て、ご近所の扉を叩いて回りに行ってしまいました。あんなに嬉しそうにされては、もう仕方ないなと、少女は思いました。 薬屋を出て、村の長が住むというお屋敷を眺める。村じゅうで歓迎だなんて大袈裟なおばあさんだな、と少女は思いましたが、美味しいものを出してもらえるかもしれないと内心わくわくしていました。少女の頭の中を、いろんなご馳走がめぐります。 するとお屋敷から、一人の青年が出てきました。青年は少女を見付けると、はっと驚いたように駆け寄ってきます。 「君は? どうしてこの集落に来た?」 「ええっと、お薬を買いに……」 突然詰め寄られて、少女は驚きました。確かにおばあさんは余所者が珍しいと言っていましたが、こんなにびっくりされるとは思っていませんでした。 「とにかく、こっちへおいで」 少女は青年に手を引かれて、付いていくしかありません。何がなんだか分からないけれど、お兄さんの焦った様子から、良くないことが起こっているのだろうと感じました。 お屋敷の中へ連れ入れられ、奥の奥の、客間ではない私室に来ました。 「あれ? 兄さんもう帰ってきたの……?」 そこには少女とおなじくらいの年頃の少年が居ました。青年と少年はどうやら兄弟のよう。兄が連れてきた少女に気が付いた少年は、兄に向けていた笑顔をさっと引っ込め、人見知りをするように表情を無くしました。 「……誰だよ、お前」 「ええっと……」 少女のほうも、説明も無く連れてこられたので、どう自己紹介したものか困ってしまう。 「こら、サスケ。睨み付けるんじゃない」 「でも、兄さん……」 「急に連れてきたりして悪かった。俺はイタチ。こっちは弟のサスケだ」 遅れた自己紹介に、少女も慌てて名乗る。 「わたしは、なまえ。よろしくお願いします」 たどたどしくもきちんと挨拶をする少女に、兄は優しく微笑みかける。 「詳しくは話せないが、君にこの村は危険だ。幸い今日は新月の日だから危険は少ないだろうが、心配だから俺が送り届けよう」 兄の言うことが、少女にはすぐに理解できなかった。この村の人たちは、道案内をしてくれた猟師を含め、みんな親切だ。それがどうして危険なのか。眉を寄せて、困惑した表情になる。 「だが、外せない用事がある。それが終わるまで、この部屋で大人しくしていてくれないか?」 少女はいよいよ困ってしまった。青年の言うことを信じるべきか、それとも村の人々の優しさを信じるべきか。今日は帰ることができない理由を伝えれば、少しは引き下がってくれるかもしれないと思い、少女は言う。 「でも、帰れないんです。薬のお代をまけてもらって、代わりに一泊していくように言われて……」 「なら、その代金は俺が代わりに婆さんに払っておこう。とにかく、何があってもここを出るんじゃない。分かったな」 有無を言わせない態度に、少女は頷くしかありませんでした。兄の言う通りに、危険なことがあるのなら、言うことを聞いた方がいいのかもしれない。そう思わせるには十分な真剣さでした。 「サスケ、すまないがしばらくその子をかくまってやっていてくれ」 「……なんで俺が」 「お前にしか頼れないんだ。俺とお前以外に、その子を渡さないようにな。しっかり頼んだぞ」 鬼気迫る兄の言葉に、やや納得いかなさそうにしながらも、弟は頷きました。敬愛する兄に頼りにされて、満更でもなかったのです。 兄が出ていき、少女は弟と二人で部屋に残されました。初めて会ったばかりの少年と何を話して良いのか分からず、しばらくそわそわした後、邪魔にならない部屋の隅へ行こうと足を進めます。 すると窓の外が少し騒がしいのに気が付きます。何かあったのだろうかと首を伸ばすと、村の人たちが何やら怒ったように話しているのが見えました。優しかったおじいさんやおばあさんまでみんな、血眼になって村を歩き回っており、その変わりように少女はギクリとしました。 「バカ、窓の側なんか行くな! 見つかるだろ」 「あっ、ご、ごめんなさい」 「全く、なんでお前なんかを隠してやらなきゃいけないんだか」 少年に怒られてしまい、少女は伸ばしていた首を慌てて引っ込めました。少年にも事情はよく分かっていないようで、ろくに説明もせずに行ってしまった兄を少しばかりうらめしく思っている様子。だけど兄からの言い付けはしっかり守ろうと、少女を窓の側から離れさせ、自分の遊んでいた位置へと誘導しました。 「お前、なんか悪いことでもしたのか?」 「どうして?」 「だって、外の大人たちはお前のこと探してるみたいだ」 どうしてそんなことが分かったのか。少女がきょとんとしていると、少年は自慢気にへへんと笑う。 「俺は、耳と目と鼻の鋭さには自信があるんだ」 「外で話してることも聞こえるの?」 「……怒鳴ってる声くらいはな」 「そうなんだ、すごいね」 少女にはそんな声はちっとも聞こえません。素直に感心してくれる少女に、少年も悪い気はしませんでした。 照れたように目をそらして窓の方を見る少年に続いて、少女もそちらを見ます。すると少年の顔色が、すうっと青ざめていくのが分かりました。しばらくじっと窓の外の一点を見詰めるようにしていたかと思うと、慌てたように少女の手を引く。少女は驚いた声をこぼして、引かれるままに足を動かす。 「ど、どうしたの?」 「こっちに来る! 家に入るのを見られてたんだ!」 「ええ!」 窓からはこちらへ誰かが来るのは見えませんでした。だから少女は半信半疑で、少年の顔を見ます。だけど焦ったように険しい表情からは、嘘を感じません。ひとまず信じることにしました。 少年は、兄弟で使っている二段ベッドの下段に、少女を押し込みました。布団も被らせて、見えなくなるようにすっぽりと覆ってしまいます。 「苦しいかもしれないけど、そこでじっとしてろよ」 少年の言葉に、見えないけれど頷いて応えます。すると少しして、数人の足音が近付いてくる音と揺れが伝わってきました。力強いノックの音が扉から響きます。 「おい、イタチは居るか」 「に、兄さんは、用事があるって」 「そうか、入るぞ」 訪ねられた人は居ないと答えたのに、その人たちは部屋へ入ってきた。ドカドカと不躾な足音が、ベッドの板から伝わってきます。不穏な空気に、少女の小さな胸がドキドキと早鐘を打つ。 「……居ないな。においはここへ続いていたと思ったが」 「誰か、探してるの?」 「ああ、小さい女の子だ。見たか?」 「兄さんが、もう連れていったよ」 「なに、そうか」 少年の懸命の嘘に、大人たちは踵を反す。少女は息を潜めたまま、危険が去るのをじっと待つしかありません。 「イタチのやつ、独り占めする気か?」 「……」 「サスケ、お前も手伝いなさい」 「え、でも」 「一番に見付けた者は、美味い所が貰えるぞ」 半ば無理矢理に少年を連れて、大人たちは部屋を出て行く。少年は心配そうな素振りを必死に隠して、怪しまれないよう大人に従っていきます。兄の行方を聞き出そうという魂胆が大人たちにはありましたが、幸いと言おうか、少年は兄の行き先を知らされていませんでした。 布団の中の少女には、大人たちの言葉は低くくぐもってよく届いていませんでした。部屋から人の気配が無くなって、唯一の頼りである少年も居なくなってしまい、少女の不安はますます募ります。 なぜ、私は探されているのだろう。なぜ、たくさんの大人が探しているのだろう。なぜ、こんなにも恐いのだろう。 優しげな青年に突然に知らされた身の危険。訳も分からない内に隠れていれば、必死に少女を探す村人の姿。親切だった村人たちの変わりように、少女の胸が息苦しいほどに詰まる。 不安に押し潰されそうで、不安から解放されたくて、布団の隙間からそうっと部屋の中をうかがいました。誰も居ない部屋は、しんとして静か。ほっとして、じんわりと涙があふれ出ます。 「……おかあさん、おとうさん、こわいよう」 ぽろぽろとこぼれる涙を、ごしごしと拭くけれど、次々流れてキリがない。父と母を呼ぶけれど、願いは届くはずもなく。 風に窓がガタリと揺れたのに驚いて、また頭まで布団をかぶる。少女の身を守れるのは、今はこの柔らかな盾しかなかった。 大人たちからようやく逃れてきた少年が、部屋へと戻ってきた。自分の居ない間に少女が見付かってしまってはいないかと、部屋の外に人が居ないのを確認し、扉をしっかりと閉めてから、おそるおそる布団をめくった。 少女は、泣くのにも怯えるのにも疲れて、いつの間にか眠ってしまっていました。少年はその姿を見て、ほっと一安心すると共に、泣き腫らした瞼の痛々しさに胸を痛めます。 「……おい、起きろ。眠ってたら逃げられないぞ」 「ん、ううん……」 少年に揺り動かされて少女は緩やかに目を覚まし、ぼんやり寝惚けまなこで、少年を見上げます。 「あ、あれ……」 体を起こしてきょろきょろと、部屋を見回す少女。村人から隠れていたことを思い出し、はっと身を固くする。 「大丈夫だ。みんな、もうお前は逃げたって思ってる」 「……そう、なんだ」 少女を逃がしたと村人から責められる兄の姿を思い出し、少年は苦々しく顔を歪める。自分の吐いた咄嗟の嘘に、元々そうするつもりだった兄が合わせてくれたのだ。皆に問いただされる中、扉の側から心配で見ていた弟に向かって、少女を頼むと目配せし、弟は兄に強く頷いてみせた。 「パン、食うか?」 窓の外は暗くなっていた。日が沈み、月もない夜。少女は空腹に気付き、少年が小袋から取り出したパンをありがたく受け取りました。 「あなたは食べないの?」 「……俺はもう食ったから。それは夕飯の残り」 少年の複雑な表情に、少女は首を傾げる。尋ねたけれど、「なんでもない」と首を振られてしまう。 少年は窓の側へ歩いていく。真っ暗で光の無い空を見上げて、難しそうにしかめた顔をいくばくか緩めた。 「今夜、月が無くて良かった」 「……どうして?」 月が無くては、暗くて夜道を歩けない。今夜は、瞬く星々さえも、薄広い雲に隠されてしまって、自然の明かりは望めなさそうであった。少女の疑問の声に、少年は答えようと口を開いて、それを半ばで引き結ぶ。曇り空を見上げていた顔を、窓枠を見下ろすまで下げて、また「なんでもない」と誤魔化すに終えた。 「とにかく、それを食べ終わったら、こっそり逃げるんだからな」 「うん」 少年にもらったおいしいパンを、一口ずつちぎって食べていく。少年の優しさを、噛み締めて飲み込んでいく。 涼やかな虫の音が響く、月灯りの無い集落。大きな屋敷の裏口から、誰にも見付からないようこっそりと、二人の少年少女が忍び出る。表に人影は無いけれど、なるべく家の陰を通り、窓からも見えないよう身を屈めて森へと向かう。 村を出てしばらく進み、村の明かりがほとんど見えないところまで来てようやっと、少年は持ち出してきたカンテラに明かりを灯した。真っ暗闇の森の中、煌々と辺りを照らすその炎に、少女は幾ばくかの安心を覚える。 「森を抜けるまではついて行ってやる。その後は、一人で大丈夫か?」 「……うん、一本道だったから、大丈夫」 本当はとても心細かったけれど、彼が家に居ないことに気付かれたら、また怪しまれてしまうかもしれない。少女を逃がすことは、他の村人たちにとってはとても悪いことのようだ。これ以上この優しい兄弟に迷惑をかけられないからと、少女は少しだけ勇気を出して強がった。 息を殺して早歩き。決して短くはない道のりを、小さな少年と少女、二人だけで行く。生き物の気配がするたびに怯えては、村人ではないことに胸を撫で下ろす。正体の分からない恐怖に、追われるような錯覚を覚えて、足が速まってはもつれる。暗く足元もろくに見えない中、カンテラ一つだけを頼りに二人は懸命に進んでいった。 長い長い、とても長い時間に感じられる逃避行。獣道を歩き疲れて座り込みそうな気持ちになった頃、ようやく木々の終わりが見えた。逸る気持ちに足がついて来ず、少女は躓き転んでしまう。それを慌てて少年が助け起こしてやった。 「大丈夫か?」 「だ、だいじょうぶ……すりむいただけだから」 手のひらと膝に擦り傷が出来てしまっていたけれど、そんなことを気にするよりも先に、少女は森を出たかった。それほどに月の無い夜の森は恐ろしく、追われる恐怖から抜け出したかった。 そうして遂に森を抜け、息も絶え絶え、看板の側に座り込んだ。土に汚れた服を払う余裕も無く、酷い安堵感に涙が溢れる。 「ひっく、……ひっく、」 「…………」 少年が慰めようと、しかしどう声を掛けようか迷ったように言葉を詰まらせる。困ったように目を横へ上へと動かした時に、ふと看板の文字に目が留まる。カンテラをかかげて読んでみれば、そこには、森に向かって『町への安全な道』、街道沿いに『オオカミが出る危険な道』と書かれている。 「これ……間違ってる。誰かが偽物の看板を立てたんだ」 「え……」 少年が言うには、真っ直ぐ道なりに行けば町があり、森にはオオカミが出るそうだ。少女は、最初から間違った道へ進まされていたのだ。誰がそんな酷いことを、と混乱とショックに少女は呆然とする。少年は掛ける言葉を見付けられず、ただ偽看板を睨み付けた。 「おーい……! なまえー……!」 そんな時、遠くから少女の名を呼ぶ声がした。はっとして、少女は立ち上がる。 「お父さん……!」 いつまで経っても帰ってこない娘を心配して、父親が探しに来たのだ。駆け出そうとして、その前にと、少年へ向き直る。 「ありがとう! わたし……っ、なんてお礼を言えば……」 ポロポロと涙を流しながら、しゃくりあげながらも懸命に感謝の言葉を探す少女。少年はそれにゆるく首を振って、俯いた。 「……悪いのは、俺たちだから」 難しい顔をして、少年はそう言った。少女はその言葉の意味が分からず、首を傾げるしかない。 「とにかく、今度またお礼を」 「ダメだ」 少年の厳しい声に、少女は面食らって押し黙ってしまう。 「“今度”は無い。もう二度とこの森に入るな。それと、俺たちの村のことは、誰にも話さないでくれ」 一番に、父に報告しようと思っていたこと。それを封じられてしまい、少女は言葉に詰まった。あんなにも歓迎されたのに、気が付けば理由も分からぬまま捜され追われ、怖い目にあった。そのことを頼れる父に吐露できないことは、少女の胸に重く苦い気持ちを抱かせた。 「でも、そんな……」 「見付からないうちに戻る。じゃあな」 「あ、待って……!」 少年は、少女の制止を聞かずに、また暗い森の中へと去っていってしまった。父に恩人として紹介したかったのに。まだ気持ちの整理もついていないのに。悲しく、寂しい思いがのしかかり、少女の幼い胸は押し潰されてしまわんばかりに締め付けられていました。 「なまえ! こんなところに居たのか」 「お父さん……」 「暗くなる前に帰りなさいと母さんにも言われただろう!」 心配する気持ちが、父を怒らせる。ですが少女が泣いていることに気が付くと、すぐに大きな体をしゃがませて慰めてくれます。 「いや……すまん。お前が母さんの言いつけを守ろうとしないわけは無いな。迷子にでもなったのか。次はちゃんとオレもついて行こう」 優しく頭を撫で、悲しそうに涙を流す娘を案じる。ひょいと軽々と少女を抱き上げ、家へ向かって歩き始めた。 二人が帰ると、心配で寝ていられなかった母が、すぐに椅子から立ち上がって迎えてくれました。落ち込んだ様子の少女に何があったのかと聞いてみますが、少女は俯いたまま押し黙っているだけで、何も答えようとしません。少女の持ち帰った薬や花はどこのお店で買ったのか。土や木屑に汚れた少女が一体どこへ行っていたのか。お金が減っていないのは何故なのか。どれにも答えませんでした。 父と母は難しい顔をしていましたが、とにかく少女が無事におつかいを済ませたことを祝おうと、とっておきのブドウジュースを出しました。少女の大好物です。それを見て少女はようやく少しだけ元気を取り戻し、両親をやっと安心させました。 少年と、あの村の人達は、一体何者なのか。どうして隠れるように深い森の中に住んでいるのか。それを少女が知る日が来るのは、これからもっと、ずっと後のこととなるのでした。 (170523) 続きを書けずにボツに [←] [→] 戻る [感想はこちら] |