※原作ネタバレと年齢操作
「ねみい」
せっかく久々の休みに会いに来た彼女に対しての第一声がそれかい。のど元までせり上がってきた文句の言葉をぐうっとこらえたら、思いのほか呆気なくからだの奥へと帰っていった。
凰壮くんには基本的に休みがない。柔道っていうハードなスポーツを、部活じゃなくってわざわざ遠いクラブに自転車こいで通って練習しに行っている。そんな日が毎日続くのだ、当然疲れはなかなかとれないだろう。休みがとれたって日頃の疲れをとるための休息(主に睡眠)に費やしたいだろうし、前のように遊んだりするのは難しくなる。そうなるってわかってて、迷う彼の背中を押してそばにいようって決めたのは他でもないわたし自身だ。そう、なんだけど、さすがにひさしぶりに顔をあわせてでてきた言葉が「ねみい」はいただけない。
「とりあえず入れよ」
「おじゃましまーす……竜持くんは?」
「あいつは学校。部活あるんだってよ」
「そっか」
たぶんちょっと前に起きたばっかりなんだろう、右目をこすりながらわたしを招く凰壮くん。誘われるままに玄関を通り、サンダルを脱いでそろえて、もう見なれた降矢家の階段に足をかける。あいかわらず広い家だ。虎太くんがスペインに留学して家から抜けちゃったから余計に広々として見える。リビングのほうから「先に中入ってろ」って声がしたから、素直に従って凰壮くんの部屋のドアノブに手をかけた。返事が返ってくるわけでもないのに「おじゃましまーす」と言いながら部屋へ入る。前に遊びにきたまんまの、彼のパーソナルカラーでもある赤色の家具に囲まれた質素な部屋に、毎回凰壮くんらしいなあと思う。凰壮くんのベッドの下にそういうすけべな本が隠されていないことは前に捜索したことがあってわかってる(そのときにものすごく怒られたから、たぶんすけべな本自体は持ってるんだろうと勝手に結論づけている)から、とくにうろうろしたりせず床に座ってテレビを見ようとリモコンに手を伸ばす。下のリビングにもさらにおっきいテレビがあるのに、凰壮くんの部屋のテレビも我が家に唯一あるテレビの何倍も大きい。くそうお金持ちめ。チャン
ネルをいじくってもとくに興味をひかれる番組は見つからず、とりあえず時間つぶしになりそうな、有名な芸人さんが司会をつとめるバラエティーを選んでリモコンを置いた。
三角座りでテレビをぼんやりと見ていると、お茶が入ったグラスをふたつ乗せたお盆を片手にやってきた凰壮くんが、「なにお前縮こまってんだよ」と笑った。お盆をミニテーブルのうえに置いて隣にどかっと座りこむ。
「なに見てんの」
「再放送のやつ」
「バラエティーとか久々。何年ぶりかな」
「まさかの年単位なんだ」
「スポーツ系は欠かさず見るようにはしてんだけどな」
「そっかあ……あ、この俳優さん有名になったよね」
「あー、お前が昔好きだって言ってたやつ?」
「そうそう。あいかわらずかっこいいなあ」
「ふーん」
興味なさそうにつぶやいて、凰壮くんがわたしの肩に頭を預けてきた。さらりと髪の毛が動いたはずみで、降矢家独特のにおいとシャンプーの香りが混ざったそれがわたしの鼻をくすぐる。やっぱりまだ寝たりないのかな。さいきん大きな大会が近づいてきてて、練習もハードになってるって聞いたし、今日もわたしと遊ぶ予定をいれてなかったら昼過ぎまで寝るつもりだったんだろう。凰壮くんに会えるのはすごくうれしいのに、ときどきすごく申し訳ない気持ちになる。
「凰壮くん、ねむたい?」
「ん? ちょっとな」
「寝てていいよ、起きとくから」
「や、大丈夫。知り合いから連絡来るから起きとかなきゃいけねえし」
「知り合い?」
「そう」
凰壮くんが続きを言おうとしたとき、机のうえにあった凰壮くんの赤い携帯が震えた。がたがたと机が小気味よく揺れるのがわかる。凰壮くんはぱっと顔を上げて、携帯に手を伸ばした。「悪い、電話だった。ちょっと出てくる」と言うやいなや、わたしの返事も聞かずに部屋を飛びだした。見送って、またテレビに視線を戻す。わたしの好きな俳優が、司会から飛んできた質問に笑顔で答えている。さっき凰壮くんの携帯のディスプレイにうつっていた名前があきらかに女の子の名前だったことには気づかないふりをして、わきあがる不安を押しこむように目をつむった。
。
○
。
「おい」
肩を揺らされて目が覚めた。目をつむったままどうやら夢の世界へ飛んでいってしまっていたらしい。もうあの番組は終わっていて、司会者もあの俳優もテレビの外に旅立っていた。凰壮くんはわたしにまたがる形で向かいあっていて、まだ寝ぼけているわたしの顔をずいっとのぞきこんでくる。「わたし、どれくらい寝てた?」「そんなに長くねえよ。20分くらい」そう言って立ち上がった凰壮くんは、ベッドに勢いよく倒れこんだ。机の上に赤い携帯が置かれているのが目にとまって、さっき心臓の奥につめこんでふたをしたはずの不安がこぼれてくる。まだちゃんとのりが乾いてなかったのかな。
「凰壮くん、あいかわらずモテるね」
「は? なんの話だよ」
「さっきの電話、女の子からだった」
「……あー、あれはちがう。竜持の彼女」
「………竜持くんの彼女?」
「そう。ケンカしてたらしくて、話聞いてやってたんだよ。まあ電話越しに仲直りしてたけどな」
「……そう、なんだあ」
思わず間の抜けた声がこぼれた。肩の力が抜けるのがわかる。起き上がった凰壮くんが、面白いいたずらを思いついて今まさに実行しようとする子どものようににやりと笑う。凰壮くん、いじめっこの顔がよく似合うなあ。
「なに、やいてた?」
降矢三兄弟は平均的な子どもよりも少し大人な顔つきと態度だから、昔っから大人な男の子に憧れる女の子の間では評判がよかった。いわゆる人気者ってやつだ。わたしの知らないところでかわいい子からたくさん告白されたりラブレターをもらったりもしてるんだろう。いつか凰壮くんが離れていくのを想像して不安になるときもある。いやな気持ちが押し寄せてきてうつむいていると、名前を呼ばれた。
「なに?」
「来いよ」
いつの間にかまた横たわっていた凰壮くんが、自分の隣にできてる広いスペースを軽く叩く。凰壮くんの意図はわからなかったけど、とりあえず誘われるままに彼の隣に移動した。凰壮くんのベッドはふかふかしてて、お高いところのなんだろうなあとわかる。ぼふんと体を預けると、降矢家独特のにおいが鼻をくすぐった。ぽかぽかあったかいお日さまのにおいでも、ミルクの甘いにおいでもなく、ああ降矢家だなあとしか言えない香り。なんとなく懐かしい気持ちになるから、このにおいは好きだ。
「きょうはもう寝ようぜ。おれもそろそろやばいし、お前も微妙な時間に起こされたからつらいだろ」
「うん、そうだね」
「悪いな。遊ぶのはまた今度でいいか?」
「……うん」
また今度、その言葉を聞いただけで、自分のなかでずうっと渦巻いていたものがほどけていくのがわかった。凰壮くんは、未来を考えてくれている。わたしが隣に立っていて、手をつないで笑いあってる未来を。もしかしたらただのとってつけたような口約束なのかもしれない。凰壮くんは今以上に忙しくなって、会える時間も無いに等しい状況になってしまうかもしれない。だけど今は、わたしの手をすっぽりと覆うほど大きくて安心できる手のひらの温度と、降矢家のにおいと、凰壮くんの言葉に甘えることにしようと思う。
子猫のあくび //メルヘン
20120805/降矢凰壮
thx20000.小鳩ちゃんへ