マサキが熱を出した。すこし前から喉に悪そうな咳をだしていたから大方風邪だろう。顔をまっかにして布団にもぐり込んでいるマサキのおでこに冷えピタを貼って「大丈夫?」と尋ねると、枯れた声でおーと返された。受話器を片手に持った瞳子姉さんがわたしの名前を呼ぶ。
「もう狩屋くんの学校には連絡いれたから。あなたも早く行かないと遅刻するわよ」
「あ、はい」
「もう受験も近いし、うつると困るからあまり近寄らないようにね」
「……はい」
立ち上がってマサキのそばから離れようとすると、くいっとなにかに制服のはじを引っ張られる感覚。視線を下げたらマサキの指がわたしのスカートの隅を弱い力でつまんでいた。「マサキ?」わたしが声をかけてもマサキはそれに対してなにも返さず、ただ「……わるい」とか細い声でつぶやいて手を離すだけ。風邪で弱ってるから人肌恋しいんだろうなあと理解すると母性みたいなそんなあったかい気持ちがふわふわとわたしの心を満たして、「今日は部活休んではやく帰ってくるね」とマサキの額にはりついた前髪を梳きながら返す。マサキはそれでちょっと安心したのか、きれいな金色の目を伏せた。
「はやくしないと遅れるわよ!」
「へ、わあ行ってきます!」
○●○
いつもの場所で友だちと合流して、学校までの道を歩きながらふと思いだす。そういや今日って瞳子姉さんにはどうしてもはずせない用事があって園を離れるんじゃなかったっけ。じゃあマサキの看病は誰がするんだろう。晴矢兄さんや風介兄さんの顔が浮かんだけれど、ふたりともバイトを入れていたはず。ヒロトさんも緑川さんも出張であそこを離れてるし、実質いまマサキは園でひとりぼっちなんじゃないのか。そう考えれば考えるほどわたしの足は一歩一歩、歩みを遅らせてゆく。それに気がついた友人は、不思議そうな顔をしながらわたしの名前を呼んだ。いまわたしたちは受験生で、入試もすぐそこにまで迫ってきていて 一日も無駄にできないことはじゅうぶん分かってる。風邪なんて引いてる場合じゃないし、引いた子の看病なんてしてるひまはない。そう、なんだけど。
頭に浮かぶのは、わたしのスカートのすそを引っ張ったときのマサキのあのさみしそうな顔ばっかりで。
「……ごめん、やっぱ今日休む! 先生にうまいこと言っといて!」
「うえ、ちょっと!? どこ行くのー!?」
●○●
「マサキ、大丈夫?」
「……は、姉さん学校は」
「サボっちゃった」
レトルトのおかゆを片手に寝ているマサキの部屋におじゃますると、マサキはいそいで起きあがって「っなにしてんだ、あほ!」と怒った。しかしすぐにげほげほと痰のからんだ咳をする。あーもうほら早く寝て、とマサキに体を横にすることをうながすと、しぶしぶといった様子で布団に入った。いつもならわたしの言うことなんて聞かないでつかみかかってくるのに。よっぽどしんどいんだろうな。
「まだ薬飲んでないでしょ。おかゆ持ってきたから食べて飲もう」
「………ん」
素直に上半身だけを起き上がらせたマサキは、だるそうな顔でわたしを見た。レトルトの卵粥をスプーンでひとすくいして、マサキの顔の前まで持っていってやる。
「はいマサキ、あーん」
「……あー」
するんとマサキの口のなかに流し込まれたそれはきちんと胃の中に落ちていったようだ。満たされたような顔をしたマサキは、もうひとくちといいたげに口を開いた。穴のなかにまたひとすくいしたおかゆをいれてやる。なんだかんだでお腹は空いていたようで、三十分ほどでぺろりとたいらげてしまった。
「はい薬」
「……さんきゅ」
水と錠剤を受け取ったマサキは、最近出てきた喉仏をならしながら飲み込んだ。はあとひと息ついて、またもぞもぞと布団にもぐりこむ。
「なにかほしいものとかない? 買いに行くからなんでもいって」
「…………じゃあ、姉さん」
「うん」
「そこに正座して」
「? …うん」
そこ、とマサキが指さした場所にぺたんと座りこむ。彼はいったいなにがしたいんだろう、とはじめは思ったけれどすぐにそれがわかった。わたしのその動作を見届けたマサキは、ずるずるとほふく前進みたいな形でわたしのもとまでやってきて、ぴたりと閉じていたわたしの太ももの上に頭を置いたのだ。いわゆる膝枕というやつ。こぼれてあたるマサキの猫毛がこそばゆい。いきなりどうしたの、と尋ねると、うすらに目を開いたマサキが途切れ途切れにつぶやく。
「………むかし、熱がでた、ら、こうやって。母さん、がしてくれてた、から、さ……」
母さん、その言葉にぎゅうっと心臓をつかまれた気分になる。そっか、意地っ張りなマサキが唯一素直に甘えられたとき、なんだな。さらさらと髪をこぼす頭をなでてやると、むうと情けない声をあげたマサキはすぐに規則正しい寝息を立て始めた。お母さんの面影を感じて安心したのだろう。マサキにとってわたしはお姉さんっていうより、お母さんみたいなものなんだろうなあ。嬉しいような、複雑なような。わたしとマサキは血はつながっていないから、彼の本当のお母さんにはなれないけれど、マサキにとってわたしが彼の本当につらいときの拠り所になれればいいな。そう思って、わたしはマサキにつぶやいた。
「おやすみなさい、マサキ」
結局マサキは夕方になっても目を覚まさず、お見舞いに来てくれた雷門中の先輩やクラスメイトたちにわたしに膝枕してもらっていたのをばっちり目撃されて、さんざんみんなにからかわれて熱とは違う意味で顔をまっかにさせていたのは、また別のお話。
やだなぁ、あったかいじゃん
狩屋マサキ/20120115
食べて仕舞おう に提出