「幸せ、だったのかなあ」
篤志は、と指先をいじくりながら彼女はつぶやいた。きっと彼女の頭のなかには、南沢さんの顔が浮かんでいるんだろう。南沢さんは、サッカーを管理しているフィフスセクターに逆らい始めた後輩や監督についていけなくなり、雷門中サッカー部を退部して、そのまま誰にもなにも言わずに転校した。幼なじみであり、かつそれ以上の関係をもっていた彼女にさえ なにも告げずにひとりで。
「わたしはさあ、なんにもしてあげられなかったんだ。こんなサッカーはいやだって泣いた篤志に手をのばすことも、ぜんぶあきらめて受け入れちゃった篤志を叱ってあげることも」
「………」
「なにが篤志にとって辛くて、なにが篤志にとって悲しくて、なにが腹立たしいかとか、幼なじみだからぜんぶわかってるはずなのに、なにもしてあげられなかった」
「……せんぱい」
「そのくせ、篤志がいなくなっちゃったら、倉間くんに甘えて。ほんとは拒まなきゃいけないのに、倉間くんと手をつないでふたりで帰って、キスして、」
「先輩!」
俺が叫ぶと、先輩の肩がびくりと揺れた。あとからあとからやってくる余震さながらに小刻みに震える彼女は、ほんとに俺より年上なんだろうか。身長が他の奴より幾分か低い俺よりも、彼女はずっと小さくみえた。先輩の瞳から津波のようにあふれでた涙は、ぱたぱたとコンクリートに濃い染みをつくっていく。
「わたし、ほんと、なんなのかなあっ……!」
いつも彼女は、恋人同士がするあれこれを俺としたとき、必ず最後にまゆをさげて「ごめんなさい」と謝る。それは南沢さんに向けてなのか、俺に向けてなのか、はたまた自分に向けてなのか。いつもはかりかねていたそれが、ようやっと理解できた。
○ △ ×
俺が彼女と知り合ったのは、中学一年の秋、いまのサッカー界の現状を知り、抵抗も無意味だとわかり、勝敗指示にいちいち胸が痛めることもなくなり、先輩たちみたいにこんなもんかと受けいれて麻痺してきたころだった。
「えーっ、と。倉間くんって、誰?」
南沢さんが早退した旨を伝えにきたのが彼女だった。その日は南沢さんとフォワードの連携プレーについて話しあってみる予定だったのだが、早退によりそれができなくなって悪い、という伝言をあずかっていた彼女は、「倉間くん」という名前を頼りに一年のクラスを徘徊していた。
「……俺っすけど」
「あ、きみが倉間くん?」
彼女は俺をとらえるとふわりと笑った。先輩のほうが背が高いので必然的に彼女を見上げる形になったのだが、下から彼女のでっかい瞳をかこむ長いまつげが、いやに目についた。いま思ったら、きっとこのとき彼女に惚れたんだろう。それからは南沢さんを通じてアドレスを交換して、ひんぱんに連絡をとりあう仲になった。
このころからすでに南沢さんとつきあっていた彼女は、俺のことを 自分に懐いてるかわいい後輩だと思っていたんだろう。南沢さんと同じように手をつないだり、抱きしめあったり、唇をくっつけあったりするなんて、きっとこれっぽっちも想像していなかっただろう。まあ俺もそうだったんだけれど。
「あつし、いなくなっちゃった」
あの日、南沢さんが雷門から出ていった日。先輩は俺の目の前でぼろぼろ泣いた。決壊したダムのようにあふれ出るそれをぬぐう彼女に俺ができたことは、俺が言えたことは、
「……南沢さんの、代わりでもいいから、」
○ △ ×
「倉間くん、ごめんね、ごめん……」
ごめんなさい、とひたすら彼女はくり返した。先輩はなにも悪くない。悪いのは南沢さんがいなくなって弱った先輩につけこんだ俺なんだ。そう言ってやりたいのに、のどの奥の奥、深いところでつっかえてしまう。ひゅうひゅうと息だけがこぼれて、先輩と俺のあいだで溶けた。
「もう、どうしたらいいかわかんないの。倉間くんをつきはなすのが、倉間くんにとってもいいはずなのに、できないの」
おもちゃを友だちにとられた子どものようにぐずりだす彼女に俺ができたのは、その震えている小さな体を俺の胸に縫い止めることだけだった。自分の学ランが先輩の涙でじわりとにじんでいくのがわかる。こんなときなのに先輩からただよう甘い香水の匂いや、細っこい体に興奮してる俺はもうどうしようもなくバカだと思った。
ねえ南沢さん。どうしていなくなっちゃったんですか。なんで先輩になにも告げずに行っちゃったんですか。なんでちゃんと別れなかったんですか。なんで、俺が先輩のことすきって知ってて、こんなこと。どんだけ頭のなかで呼びかけたって、南沢さんが返事をしてくれるわけないのに、俺は先輩の肩に顔を埋めて、彼の名前を呼びながらひたすら泣いていた。
ダーリン、世界は変えられない //花洩
20120226/倉間典人
thx20000.春子さんへ