「眠れないんだ」と彼は言った。

エリオットが不眠に悩まされているということはリーオから聞いていたけれど、彼の目の下にできているひどい隈に事の重大さを痛感した。わたしが思っていた以上に、エリオットは苦しんでいる。睡眠不足によるストレスからか、彼は小さいころに止めた唇を噛むくせを再発させていた。皮を剥き、部分的に赤が際立ったエリオットの唇を見やりながら、わたしは口を開く。

「エリオット、久しぶりにいっしょに寝ようか」

いつもなら眉根を寄せて拒否するであろう提案をすんなりと受けいれた彼は、またべりっと唇の下唇の皮を剥いだ。


●▲■


「はい」

「……ん」

わたしが差し出したホットミルクのマグを彼は小さな声で返事をして受け取り、ほんのすこしだけ口に含んだ。そういえばエリオットは猫舌だったなあと記憶を引っ張り出しつつ、わたしもエリオットの横に座った。ぽすん、とベッドがはずみ、ホットミルクがこぼれそうになる。慌ててそれを一気に流しいれて、わたしは彼に話しかけた。

「昔はエリオットとわたしとリーオのさんにんでよくここに泊まったよね」

「……ああ」

「あのときは楽しかったなあ」

エリオットは何も言わず、湯気の減ったホットミルクに口をつける。きれいな喉仏が上下するのを眺めていると、わたしの視線に気づいたエリオットが眉を下げて笑った。

「なんだよ、じろじろと」

「ううん。なんでもない」

「変なやつ」

それをエリオットには言われたくない。そう言ったら、「リーオよりもか?」と問われた。……考えたら確かにリーオよりも変な人なんてそうそういないだろう。「リーオよりは、まあ、まだいいかも」「なんだそりゃ」はは、とエリオットが声をあげる。だいぶ緊張はほぐれたみたいだ。

「リーオから聞いたよ」

「………」

「悪い夢、見てるんだって?」

「…ああ」

床に静かにマグカップを置いたエリオットの態度が、先ほどとは打って変わって荒いものになった。きつく眉根を寄せて、苦しそうに息をひとつ吐く。短い前髪を雑な動作でかきあげ、ぐしゃりと握りつぶす。そのまま後ろに体重を預け、ベッドに沈んだ彼は、小さな声で言った。

「…怖いんだ。夢を見るのが、怖い。オレがオレじゃなくなるみたいで……」

「……うん」

「眠りたくても眠れない。もういやだ、あんな夢っ……」

ぼすん、とわたしもベッドに背中から飛びこんだ。シーツの海に放り出されている彼の左手を優しく包むと、エリオットの肩がびくりと揺れる。細い髪の毛を指でさらさらと梳きながら名前を呼ぶと、いまにも泣きそうな顔でわたしを見た。

「大丈夫だよ。わたしが隣にいる。エリオットがゆっくり眠れるまで、ずっと起きていてあげる。ずっとそばにいてあげる」

べそをかいている子どもをあやすみたいに、よしよしと頭を撫でてやると、エリオットはぎゅっと唇をかんだ。泣かないようにと堪えているのだろう。そんなことをしたって体は正直で、瞳はうるみきっているというのに。青白くなりつつある唇を見かね、彼に止めるようにと促すために口を開いた。
「エリオット、」唇噛まないで、と言いきる前に、生暖かいなにかがわたしのそれをふさぐ。それが彼の赤い斑点が目立つ唇だと気づくのに全く時間はかからなかった。どれくらいそうしていただろうか。わたしのそれを開放したエリオットのターコイズブルーの瞳は、いつものようにほどよく乾いていて、なぜかわたしの頬を塩辛い雫が歩いていた。

「なんでお前が泣いてんだよ」

「……エリオットに涙ももらっちゃったんだよ」

「意味分かんねえ」

歯を見せて笑う彼の顔は、元がいいからか崩してもなかなか整っている。それでもわたしの目がとらえるのは、薄暗い色をした隈と、痛々しい赤い斑点をちりばめた唇で。

「エリオット、睡眠不足で死んじゃったりしたら絶対許さないからね」

「そんなんで死なねえよバカ」

そんな会話を続けながら、わたしはエリオットが眠るまでとなりにいた。わたしが包んでいたエリオットの左手はいつのまにか、その白い指先で、わたしの指をいとおしそうに絡めていた。


●▼■


「エリオットは死んだよ」と、彼は言った。

わたしは目の前にいるヴィンセント様の言葉がどうしても信じられなかった。何度も何度もヴィンセント様の言ったそれを反芻してみても、すとんと頭のなかに届くことはなく、むしろ嘘だ嘘だと脳が頑なに否定していた。……そうだ。これはヴィンセント様の嘘に違いない。ヴィンセント様は嘘つきだから気をつけてと、アーネスト様からもヴァネッサ様からもエリオットからも言われていた。だからこれは全部、ヴィンセント様がわたしをからかうために言った嘘なんだ。目の前で伏せ目がちになっているヴィンセント様を見ると、ヴィンセント様はわたしの視線に反応せず、ただつぶやいた。

「フレッドもクロードもアーネストもヴァネッサもエリオットも、母上もナイトレイ公もみんな、みんな死んでしまったよ」

嘘だ。じゃあどうしてあなたは生きているの、どうしてギルバート様は生きているの、どうしてリーオは生きているの、どうしてエリオットが死ななければいけなかったの。あの日、髪の色とおんなじゴールド混じりのシルバーカラーのタイをわたしに結ってもらって、消えそうな声でお礼を言って、照れくさそうにはにかんでくれたエリオットが、どうして。足の感覚がなくなり、膝から崩れ落ちるわたしにヴィンセント様は声をかけた。

「……死ぬ前にね、エリオットはきみにメッセージを残していったよ」

「………メッセー、ジ?」

「『約束、守れなくてわるい』」

約束、まだわたしも彼も小さかったころ、エリオットがまだ、ナイトレイなんていうしがらみにとらわれていなかったころ、わたしたちがまだ、なんにも知らない子どもだったころ、二人でした小さい約束。大人が子どもの要求を先延ばしにするためにするような、ちゃちな約束。

「おおきくなって、しわがいっぱいできるようになっても、死んでしまうときも、ずっととなりにいようね」

みんなはヴィンセント様を嘘つきだといったけれど、みんなも嘘つきだと思う。ヴァネッサ様とはショッピングに行って、おいしいケーキをカフェで食べる約束をしていたし、アーネスト様とは、エリオットとしているピアノの連弾のレッスンを内緒でしてもらう約束をしていたのに、みんな果たされないままふたりは死んでしまった。エリオットにしては大嘘つきだ。死ぬときもずっと一緒だって言ったのに。わたし、あなたにさよならのひとつも言えてないんだよ。先ほどまでヴィンセント様の嘘だと信じて疑わなかった言葉が、わたしの頭の中にすとんと落ちて、じわじわと滲み埋めていく。ああ、本当に、死んでしまったんだ、みんな。
みんなの、エリオットのいない世界を、わたしはどうやって生きればいいんだろう。エリオットのばか。謝ってほしくなかった、わたしもいっしょに連れて行ってほしかったよ。酸素よりもずっと大事なあなたのいない世界なんて、きっとわたし、すぐにあなた不足になって死んでしまうだろうね。頬を伝ってゆく涙は、とどまることを知らず、むしろ水たまりを作る勢いで、はらはらと床に落ちていった。


::目を閉じて考える呼吸の仕方


エリオット・ナイトレイ/20111004

白い指先 様に提出


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -