不透明なにんげんなので/一乃 | ナノ
一乃くんは悲しいことや嬉しいことやつらいことや腹が立ったことなど、なにかあったとき、かならずわたしに抱きつく。帰り道や誰もいない部室の中など、場所も様々だけど、今日は人気のない放課後の教室。サッカー部だった一乃くんはさすが運動部なだけあって力も強い。わたしはとくに身をよじることもなく一乃くんに抱きつかれてるままだ。こんなときの一乃くんはたいてい辛いことがあったときなので、わたしはなすがままにされていなければいけない。一乃くんは変なところでプライドが高いのだ。
ぎゅう、と背中に回された腕に力が入る。う、内臓が締めつけられる感じがして少し痛い、かも。一乃くんは何も言わない。いつも彼が満足するまで沈黙を流して、離れるときに「ごめん、ありがとう」と言って一乃くんは普段の一乃くんに戻る。今日も多分そうなるだろう、と思っていたけど違った。一乃くんの高くも低くもない中性的な声がこの静かな空間を壊したからだ。
「…今日、一年が言ってたんだ」
返事をするか相槌を打つべきなんだろうか。分からず固まっていると一乃くんがまた続けた。どうやら彼の独り言らしい。
「新入生にやられるサッカー部なんて終わりだな、って、サッカー部入らなくて良かった、って」
「…うん」
ぎゅう、と肩に顔を押しつけられる。一乃くんの声が、日の光に染められてしまった教室にひびく。声からにじんでる悔しさと、つらさと、やるせなさ。いますぐ一乃くんを抱きしめたいと思うのに、一乃くんにしっかりと捉えられてそれすらできない。
「悔しいんだよ。周りに流されて辞めた俺が言える立場じゃないけど、腹が立つんだ。フィフスセクターのことも、なんにも知らないやつにそんなこと言われて、ほんとはふざけんなって怒鳴り散らしてやりたかった」
一乃くんの声はだんだん弱くなっていき、それから嗚咽へと移っていく。セカンドチームで公式試合にでられることも少ないのに、ここまでサッカーを愛せる彼を心底すごいと思う。そしてそんな一乃くんだから、わたしは彼とサッカーを好きになったんだろうなあとも考える。そんなことを頭に馳せていると、いきなり一乃くんが唇に噛みついてきた。リップクリームを塗っていたからか、彼が舌をねじ込んで角度を変えるたびに、あまい苺の匂いが鼻を刺激する。こんなことをされるのは初めてではないけれど、やっぱりいつまでたってもうまく呼吸ができない。わたしが苦しそうにもがくのを見ると、一乃くんは名残惜しそうに唇を離した。
「…ごめんな、ありがとう」
「ぜんぜん、大丈夫」
「もう暗いし、帰ろう」
そう言って火照った顔のまま笑った一乃くんは、いつもの一乃くんに戻っていた。
::不透明なにんげんなので
一乃七助/20110614