あの事件のあと、わたしは部活をやめた。走るのが怖くなったのだ。走っていると、変質者のこととか、神童くんの泣きそうな声や顔を思い出してしまう。今だってまだ走るのが怖い。
「…最低でしょ?」
わたしは言っちゃいけないことを言った。サッカーとわたしどっちが大事、なんてばかな質問。神童くんが大事なのは、サッカーに決まってるんだ。だってわたしは、そんな神童くんを好きになったんだから。
「わたしは神童くんを傷つけた。神童くんを支えてあげなきゃいけないのに。だから、神童くんの隣にいる資格なんてないんだ」
自嘲気味に笑ってみせるけど、南沢くんはなにも言わない。わたしを見たまま動こうともしない。不思議に思って南沢くんに駆け寄ったけれど、彼は下を向いてしまった。
「…なんだよそれ」
やっと絞り出した南沢くんの声には、怒りが明白に含まれていた。やっぱり南沢くんもあきれたよね。こんな自分のことしか考えてない奴なんて嫌だよね。そう言って笑おうとしたけど、それは叶わなかった。ぐいっと左腕を引っ張られて、いきなり黒く染まる視界。抱きしめられているんだとわかったのは、南沢くんの心臓が動くのを間近で感じてからだった。
「俺だったらそんな思いさせねえのに」
「…南沢くん、」
「そんなん言いたくなるのも当たり前だろ。…怖かったよな」
怖かったよな、その言葉になぜかほっとして、ほつれた糸が元通りになったみたいに、涙腺がほどけた。あのとき散々泣いたはずなのに、わたしの水分量半端じゃないなあ、なんてくだらないことを思う。まさかみんなから言われなかった言葉を南沢くんがくれると思ってなくて、うれしかった。
ひとしきり泣いたあと、南沢くんが「使ってないから」とタオルを貸してくれた。わたしから溢れた水分はほとんど南沢くんの学ランに吸われてしまっていたので、顔を一拭いすればほぼ完全に顔は乾く。まさか南沢くんがここまで優しい人だとは。普段の行動からはまったく考えられない。鼻をすすり、南沢くんにありがとうと言うと、彼はまっすぐわたしを見据えた。
「…苗字はもう、神童とは別れたのか?」
「わかんない、けど…多分、向こうはわたしを嫌いになってると思うよ」
そう言うと、彼はふーんとだけ答えた。今の質問の真意が読めなくて首を傾げていると、南沢くんはあさっての方向を向きながらわたしに人類滅亡だって可能なほどの爆弾を落とした。
「じゃあ俺と付き合うか」
…はい?南沢くん今なんて?付き合う?誰と誰が?「俺とお前がに決まってるだろ」あ、心の声漏れてたのね。「じ、冗談だよね?」「冗談でこんなこと言うかよ」まあそりゃあそうなんだけど、と言うことはつまり、南沢くんはわたしが「俺は苗字が好きだ」なんで先に言うの!
「え、と、」
「言っとくけど本気だからな」
「う、」
じい、と瞳を見られる。南沢くんの瞳は正直苦手だ。ぜんぶ見透かされてる気分になる。
「お前が神童をまだ好きでも別にいい。神童を最後に選んでも構わない。だから、今だけは俺を隣に置いてくれないか?」
そうつぶやいた南沢くんの肩は少し力が入っていて、余裕を保っているようにみえるけど、緊張しているのがすぐわかった。南沢くんは本気でわたしを好きなんだ。わたしも、誠実に彼に向き合わなきゃいけない。
20110622