「ありがとう」

わたしのその言葉を聞いた南沢くんはすこしだけ、泣きそうな顔をした。けれどすぐに、やっぱりなと言いたげな素振りをみせる。きっとわたしが本当に言いたかったことに気がついたのだろう。

「謝んなくていいからな」

「南沢くん」

どうせまだ神童のことが好きなんだろ、と南沢くんは言った。「まあお前見てたら分かるけどな」「……え、そんなにわかりやすいかなあ」その言葉を聞いた南沢くんは、目の前で木の実が弾けたときのように目を見開いて驚き、くつくつと喉から声を漏らした。今の会話のいったいどこに笑える要素があるというんだろうか。


「分かりやすいよ。お前も、神童も」


「名前先輩」

南沢くんといっしょに帰った次の日。振りかえると、陸上部にいた頃、わたしを慕ってくれていた後輩が立っていた。走るときはふたつに纏めている髪を、きょうは頭の高い位置でひとつに括っている。「どうしたの?」と声をかけると、彼女は眉根をきつくよせた顔を上げた。彼女のこんな顔は初めてみる。

「先輩、……神童くんと別れたって、本当ですか」

「………え、」

「神童くんと別れて、別の人とつきあってるんですか?」

今にも泣き出しそうな顔で、彼女はわたしをずっと捉えて離さなかった。わたしはわたしで彼女の言っていることがよく分からなくって、ひたすら目を白黒させて戸惑うばかり。神童くんと別れた……は、否定がむずかしいけれど、別の人って、誰? まさかの太一? そんなわたしの一人問答を知ってか知らずか、彼女はつらつらと言葉を並べた。

「ふたりの様子がおかしいことは、前からなんとなく気がついてはいたんです。でもそれを聞く前に先輩は部活を辞めてしまって……。でも昨日、見たんです」

「見、た?」

「先輩がサッカー部の人とふたりで帰っているとこ、を」

昨日の帰りと言ったら、南沢くんのことだろう。彼にはファンが多いから、なるべく人目を気にして帰っていたつもりだったんだけど、どうやら見られていたらしい。

「昨日のは送ってもらってただけ。つき合ってるとかじゃないよ」

「じゃあ、どうして神童くんに送ってもらわなかったんですか」

「……それ、は」

「先輩は神童くんとつき合ってるんじゃあないんですか? それなのにわざわざ別の人に送ってもらうんですか?」

なにも返せなかった。だってそれは、事情を知らない彼女からしたら至極真っ当な疑問だったから。ぎゅうっと唇を噛んで、逃げるようにうつむくと、彼女は絞り出したような声で言った。

「……昨日、神童くんは、先輩とサッカー部の人がふたりでいるのを、わたしといっしょに見てました」

「……え、?」

「神童くんは、泣きそうな顔をしてました」

神童くんが、見てた。わたしと南沢くんがいっしょに帰るところを。神童くんに、見られて、た。ゲームなんかで時々、目の前がまっくらになったという言葉を目にするけれど、きっとこういうことなんだろう。目の前の後輩の顔も、はっきり見えない。

「……どうして、先輩だから、いいって思えたのに。神童くんを幸せにしてくれるって、本気で思ってたのに」

「………」

「そんな人に、神童くんは渡したくない。……わたし、神童くんが好きだったんです。ずっと、ずっと」

ごめんね、知ってたよ。ずっと知ってた。わたしがまだ陸上部にいた頃、グラウンドの周りを走っていたとき、愛おしそうな目で神童くんを追ってたことも、神童くんとわたしがふたりでいるとき、羨ましそうな目でわたしたちを見ていたことも、全部。でも知らないふりをしてた。気づかないふりをしてた。わたしは、最低だ。

「わたし、神童くんに今から告白しに行きます」

「っ、」

「先輩はもう、神童くんとつき合ってないんですよね? だったら、わたしに、神童くんを譲ってください」

それだけ言いたかったんです、とわたしを一瞥して彼女はわたしに背中を向けた。その足で今から、神童くんのところに向かって、そして好きだと言うのだろう。神童くんと同じクラスの彼女なら、彼もそこそこの面識はある。断る理由なんか、まっすぐできれいな彼女にはきっとない。そうだ、わたしは神童くんの彼女じゃないんだから、とやかく言う権利なんてない。でも、でも。ぐるぐるとめぐる息のつまりそうなそれ。神童くんにとってただの先輩でしかないわたしが抱いてしまっている、厚かましい感情。

「、待って!」

ぴたりと彼女の踏み出した右足が止まった。首だけこちらに振り返った彼女の顔には、どうしたのだとはっきり書かれている。その顔に怯みながらも、わたしは途切れ途切れに言葉を発した。

「……ごめん、なさい。こんなこと言える立場じゃないって分かってる。けど……っ」

「………」

「わたしはまだ、神童くんが好きなの。だからだれにも、渡したくない。……ごめんね、ごめんなさいっ……」

言葉混じりに嗚咽が混ざって、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。わたしってだいぶ泣き虫なのかもしれない。だけど、どうしても、神童くんを手放したくたい。無くしたくない。ばかみたいだと笑われても、彼の隣はずっとわたしでありたい。そんな小さい子みたいな独占欲。後輩に吐いたってどうしようもないのに。下を向いたまま涙をぬぐっていると、わたしの耳に届いたのは、意外すぎる彼女の言葉だった。

「……だってさ、神童くん」

まるで近くに神童くんがいるみたいな物言いに、思わずぐじゃぐじゃの顔が持ち上がった。にじんだ視界にうつったのは、ぼやけた景色の中でも映える独特の色をしたウェーブ。うちの学校でそんな髪をしているのは、彼しかいない。

「………し、神童く、ん?」

「……すまないな、こんなことをさせてしまって」

神童くんは彼女に申し訳なさそうな声で呼びかけ、彼女はそれに「全然!」と応える。え、え、いまなにが起きてるの?目の前の出来事においついていない自分の耳にようやく届いたのは、彼女が「頑張ってね」と言って去ってゆく足音だけだった。

「……苗字先輩、」

「しんどう、くん」

涙のせいで彼の表情は定かではないけれど、こうやってふたりきりで向き合ったのは何時ぶりだろうか。永遠に続きそうな沈黙をやぶったのは、神童くんだった。


20111026




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