空への帰りみちのなっちゃんより!


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「なァ」
「なんですか、あなた」
「……」
「何赤くなってるんですか気持ち悪い」
「鬼嫁!」
「あら、こんなに素敵で美人な奥さんに暴言を吐くのはどの口かしら?」
「あだだだだだ!」

ぎゅう、と頬を抓られて悲鳴を上げる。
仕様のない旦那さまね、と言って笑う妙の顔は穏やかで、"旦那さま"という言葉に尻の辺りがむずがゆくなった。

今年も綺麗に咲きましたね、と妙は庭の桜を見上げる。
凛としたその横顔に見とれた。

「…お妙」
「はい」

指輪のはまった妙の左手を握る。
照れたように妙が頬を染めた。

「約束、してくれねェか」
「約束?」

頷くと、妙は何ですかと問い返す。
握った手に指を絡ませて、シルバーのリングをなぞった。

「俺とお前は夫婦になった」
「ええ」
「でも、なんだ…、その、年が結構離れてるだろ」
「ええ」
「でも、これから何があるかわからねェ」
「そうですね」
「だから、」

言葉を切って、妙の瞳を見つめる。
妙も黙って視線を返してくれた。
くるりとした黒い瞳に自分の姿が映り込む。

「俺より先に死ぬな。1日でいいから、俺よりも長生きしろ」

妙は大きく目を見開いて、俺を見た。
それから可笑しそうに笑って、絡ませた指に力を込める。

「わからないわ。そんなこと」
「ばっ、いいんだよそれでも」

急に照れくさくなって顔を背けた。
妙はくすくすと笑う。

「そうね。約束、しましょう。ゴキブリのように生命力の強い銀さんに、かよわい私が敵うかわからないけれど」
「ちょ、奥さん!?旦那のことゴキブリとか言うゥゥゥ!?」

頑張らなくちゃね、なんてのん気に笑う妙に抗議の声を上げるが、妙はさらりと無視して、はい、と小指を差し出した。

「…なに?」
「指切りです。約束するんでしょう?」

ね?と屈託なく笑う妙。
なんとなく気恥ずかしさを感じて、顔が熱くなる。
小指をそっと絡ませて、楽しそうに歌う妙を見ていた。

「指きった!」

離れた小指に微かな名残惜しさを感じる。
青臭いことをした自分の照れをごまかすように妙を抱き寄せて、懐に収めた。
急に何ですかと顔を上げた妙の額に口付けを落とす。

泣きそうなくらい穏やかで温かな日々。
むせかえるほどの幸せを、この時俺は確かに感じていた。


***


病院特有の匂いが鼻につく。
真っ白い無機質な部屋の中、横たわる妙だけが色を持っていた。

大江戸病院最上階の個室。
そんないい部屋に自分や新八では入れてやれるはずもない。
それでも妙がここにいるのは、真選組による援助があったからだ。

ベッド横のイスに腰かけて、眠る妙の頬を撫でた。
熟睡しているのか、起きる気配はない。
妙の冷たい手をそっと握って、温めるようにさする。

我慢し過ぎる性格がたたって、気付いた時には手遅れだった。

告げられた宣告にただ愕然とした。
しかし、激昂する自分に対して、妙は驚くほど冷静に、あっさりと事実を受け入れて、

『約束守れなくてごめんなさい』

そう言って、哀しく、優しく笑っていた。涙ひとつこぼさず、それを享受して。

『この状態でご出産は危険です。母体への負担が大きすぎる』

『母子共に助かる可能性はゼロに等しいでしょう』

『奥さまか、お子さまか。旦那さま、ご決断を―――』

辛そうにそう告げた医師の言葉が、頭の中をぐわんぐわんと揺らす。

どうして、と思わずにはいられなかった。
神様とやらがいるなら、思い切り殴りつけて怒鳴ってやりたかった。
『どうして今で、どうしてお妙なんだ』と。
妙が何をした。
幼い頃に両親を亡くし、我慢して我慢して今まで立派に生きてきた妙が、どうしてこんな目に遭う?

子どもを生めば、妙が死ぬ。

どちらか一方しか助からないのなら、聞かれるまでもなく自分の答えは決まっていた。
たとえ先延ばしにしただけだったとしても、少しでも一緒にいられるなら。

「…ん」

妙がわずかに身じろぎする。
お妙、と呼びかけるとうっすらと瞳を開けた。

「…ぎんさん?」
「そーだよ。目ェ覚めたのか?」
「ええ。いつからいたんですか?」
「今来たとこだ」

そう言って頭をくしゃりと撫でると、妙は嬉しそうに笑う。
握ったままだった手がやわく握り返された。
妙の手の柔らかさにほっとする。

「なァ、お妙」

はい、と妙は返事をして真っ直ぐに俺の目を見た。

赤子ではなくお前を選びたいのだと、何度も何度も頭で繰り返した言葉が、頭で反響する。

妙の中に宿る新しい命。
それは、俺にとってもかけがえのない大事なものだ。
妙の命と、赤子の命。天秤になどかけたくない。

それでも、選ばなければいけないのなら。

うつむいて、ぐ、と唇を噛み締める。
妙の手を強く握った。

「銀さん」

なだめるような妙の声に、恐る恐る顔を上げる。
悟りきったような表情にはっとした。

「私、やっぱり、」
「許すかよ!!」

言いかけた妙の言葉を、無理やりに遮った。

わかっていた。
妙がそう言うだろうということは。
悩んでいたことも知っている。

『ごめんなさい。こんなことになってごめんなさい』

お前が悪いんじゃないと何度言っても、妙は弱々しく首を振るだけだった。

知っているんだ。
妙がどれほど苦しんで出した答えか。
それを俺に伝えることが、どれだけの勇気を必要とすることか。

全部、全部、痛いほどわかっている。
わかっているから、だからこそ、赤子ではなく妙を選ぶと決めたのだ。

「嫌だ!お前がなんと言おうと、俺は、」
「銀さん」

突然怒鳴るように声を荒げた俺を責めることもせず、妙は静かに俺の名を呼ぶ。
妙のくるりとした目に、捕まった。

「産みたいの。お願い、銀さん」

強い意志を秘めた瞳。やはり、妙はもう決めたのだ。
こういう目をした時は、周りがなんと言おうと譲ろうとしない。
ずっと一緒にいたのだ。それくらいわかる。

でも、今回ばかりはわかったと言って引き下がるわけにはいかないのだ。

「お前、わかってんのかよ!産むってことは、お前が、」
「わかってるわ。それでも、産みたいの」

カッと頭に血が上る。

「っふざけんな!!」

ベッドの上で体を起こす妙を、引き寄せてきつく抱きすくめる。
妙は驚いたように僅かに身を固くしたが、さしたる抵抗もみせなかった。

「…嫌だ、嫌だ!嫌なんだ…!何だよ、決めたって。わかってるって何をだよ!!死ぬんだぞ!ほんとにわかってんのかよ!!」

ぎゅう、と隙間もなくなるほどきつく抱き寄せて、叫ぶようにそう言った。

「…やめてくれ。頼む、お妙…。置いて逝くなんて言わねェでくれよ…」

妙の水色の寝間着に涙がしみをつくる。
声が涙でつかえた。

腕の中で僅かな抵抗を見せた妙に、とっさに力を緩める。

「…って、」

小さく聞こえた声に、涙もそのままに顔を覗き込む。

「だって、今の私じゃあなたに何もしてあげられないもの!」

顔を上げた妙の表情に驚く。
病を告げられても、子と己の命という重い選択を迫られても、うろたえもせず穏やかに微笑んでいた妙が、泣いていた。

「私だって、死ぬのは怖いわ!私だって、あなたとずっと一緒にいたい…!でも、無理なんだもの!あの約束だって、どんなに頑張ったってもう守れそうにない…!」

顔をぐしゃぐしゃにして、ドンドンと俺の胸を叩く。

「わかってるわ!これは私のわがままよ。でも、お願い。わかって銀さん…!自分があなたの隣に立てないなら、せめてあなたの隣にいた証を残したいの…!確かにあなたの隣に私がいて、一緒に過ごした日々があったんだって、」
「…っ!」

たまらずに、抱きしめた。
言葉なんて何も出てこない。
ただ、苦しいほどに、目の前の女が愛しかった。

「お妙、お妙…っ!」
「ぎ、んさっ」

言いかけた"ごめん"を飲み込んで、かすれた声でありがとうと言った。
妙は黙って首を横に振って、銀さん、と小さな声で俺を呼ぶ。

しがみついてわあわあと泣き始めた妙を包み込むように優しく抱きしめて、耳元で愛してると小さく囁いた。





夜遅くに妙が産気づいたと連絡をもらい、慌てて駆けつけた。

『最善は尽くします。ですが、ご家族の方はそれ相応のご覚悟を』

到着後に告げられた医師の言葉が頭から離れない。
それはおそらく、新八も神楽も同じだろう。

向かい側のソファーをちらりと見やる。
堪えきれず泣き出した神楽を慰めるように、新八が頭を撫でていた。
神楽ちゃん、と優しくなだめる新八の声は震えていた。
泣きはらした目が真っ赤なのも知っている。

『新ちゃんと神楽ちゃんのことお願いします。あの子、泣き虫だから』

そう言って少し寂しげに笑っていた妙を思い出して、作った拳に力を込めた。

大丈夫だとひたすら自分に言い聞かせ、深く息をする。

(頑張れ、お妙…!)

祈るように、ただただ妙を想った。

静かな空気を裂くように、分娩室からおぎゃあおぎゃあと高らかな産声が響く。
新八も神楽もはっとして立ち上がった。

間もなくして分娩室の扉が開き、ひとりの看護婦が俺を呼んだ。
泣きそうな目で俺を見つめる神楽と新八に頷きを返して、中に向かう。

「お妙っ!」

中央の台にぐったりと横たわる妙。
目が合った瞬間、涙腺がゆるみかける。

微笑む妙は、どうしようもなく美しかった。

「銀さ…抱いて、あげて…くださいな」

看護婦が、元気な男の子ですよ、と小さな赤子を連れてくる。
慣れない手つきで赤子を抱く俺を、看護婦が見かねて手の位置を直した。

少しでも力を込めれば抱きつぶしてしまいそうなかよわさ。
今まで感じたことのない感触だった。
温かで柔らかな小さな赤子。
顔なんて真っ赤でくしゃくしゃで、かわいいなんてもんじゃなかった。
それでも、形容しがたい"愛しさ"という気持ちが胸に満ちる。
ずっしりとした重みが確かに腕に伝わって、不意に涙がこぼれた。

横たわったままの妙に、赤子を近付ける。その枕元に赤子を横たえた。

「…お妙」
「ぎんさん」

かすれた声で、妙は俺を呼ぶ。
疲れ切った表情だったが、どこか満足げで、優しい顔をしていた。
ああこれが母親の顔なんだと訳もなく思った。

「ふふ、かわいい…。私と、あなたの、赤ちゃんですよ」
「よく頑張ったな…。男だってよ。目がお前にそっくりだ」

何故だか溢れて止まらない涙を拭うこともせず、妙の耳元で囁いた。

「銀さん、この子のこと、お願いしますね」
「…に、言ってんだよ!」

差し出してきた妙の手を両手でぎゅっと握りしめる。
いつの間にか、周りいた医師や看護婦はいなくなっていた。

「…約束、守れなくて…ごめんなさい。私は、先にいって待ってます、から…」
「…お妙っ」

涙で前が霞む。
泣かないで、と妙が優しく俺の頬を撫でた。

「目一杯、愛して…あげて下さい…。あなたが、私を…愛してくれたみたいに」
「…当たり前だろ!」
「…あなたと私の子だもの…。きっと、強い子になるわ…」
「…っぅ、お妙っ」

伝えたいことはたくさんあるのに、言葉が出てこない。
妙の手をきつく握りしめて、待ってくれ、いかないでくれとただただ祈った。

「あんまり、早くこっちに…来たら駄目ですよ。追い返しますからね…」「…ばかやろ」
「待つのは、得意だもの…」
「お妙、もう喋んなっ」

大丈夫ですと妙は言う。
深く息をついて、優しく微笑んだ。

「…私、幸せでした。あなたと一緒に過ごした時間は…私の宝物だわ…」
「…俺もだよ」
「銀さん、銀さん…」
「お妙」
「愛してるわ…」
「…っ!」

妙の目から涙が一筋こぼれ落ちる。
俺も、お前を世界で一番、

「愛してる」

涙まじりの声でそう囁いて、そっと唇を重ねた。

触れるだけの優しいキスをして、精一杯の笑顔で笑いかける。

「…ありがとう」

ピーーー、という長い電子音が室内に響きわたった。

坂田妙、享年23歳。
夫婦になって、3年。

静かな室内に、泣き声だけが響いていた。