私は幸福な人間なのだろう。家は名家とはほど遠く容姿は並だし、言ってしまえば何の取り柄もないただの下女だった。だというのに気がつけば魏の公主だ。これを幸福と呼ばず何と呼ぼう。

私の義父である曹丕様は戦で何もかも失い死にかけていた私を見て何を思ったか養女へと迎え入れた。当然、これにはほとんどの者達が反対した。それも当然だ。私のような存在が曹家の人間になるなど有り得ない。釣り合わない。それでも曹丕様は私を養女にした。曹操様は曹丕様がそうしたいというのならばそうしろと存外簡単に受け入れて下さった。これにより私は曹家の一員となった。曹丕様も甄姫様も私にとても良くして下さった。義父上と義母上と自然に呼べた。私は本当の両親以上に両親だと思うようになった。何故、義父上が私を養女に迎え入れたのかは分からない。もしかしたらただの気紛れだったのかも知れない。否、義父上の性格からしてきっとそうなのだろう。そうだとしても嬉しかった。そのうち私は義父上の為に、魏の為に何かをしたいと思うようになっていた。

彼等が亡くなって司馬一族が実質政権を握っていたとしてもそれは変わらなかった。曹家の事を思うならばむしろそういった考えは起こさぬ方が良いのだろうが、司馬一族ならば良いだろうと私は思った。民が泣かぬ世というものを義父上はつくりたいと仰っていた。司馬一族ならばそれが出来ると思ったのだ。また、もしも司馬一族が私を排除すると決したならばそれも良いとすら思っている。既に私は彼等にとって邪魔な存在な筈だ。その日がきたら特に抵抗もせず受け入れるだろう。

だからこそ、幾ら止めておけと言われても何か行動を起こしたかった。昭や元姫の忠告を聞いておくべきだったのに、戦に出た。私など足手まといにしかならぬというのに。そして忠告された通りになってしまった。嗚呼、なんと馬鹿なのだろうと今では思う。
私は、蜀の者達に捕まった。捕虜になってしまった。今は縄に繋がれまるで奴隷のようで魏の公主ともあろう人間がこのような無様な姿になっている。どうやら名のある将はこの場に未だ居ないらしい。私を公主だと気がついている者は居ないが高貴そうな身形をした女が捕まったのだからそのうちやって来るだろう。そもそも私はあまり外へは出歩いた事がなく、私の存在を知っていても姿を知っている者はあまり居なかった。それもあるのだろう。

私はこれからの事を考えて小さく溜息を吐く。今頃、昭達はどうしているだろうか。例えば蜀の者達が私が誰だか知って私を交渉の餌にするとする。その場合、昭達は私を見捨てるに違いない。所詮、私は曹家の人間とはいえ元は下女であり昭達にとって邪魔な人間なのだから捨てる事が可能ならば捨てる。そういうものだ。死ぬ事になったとしてもそれは仕方のない事だ。心残りがあるとすれば魏の為に何も出来なかった事ぐらいか。

…違う、それだけじゃない。もう一つだけ、ある。私は魏の公主として相応しくない如何にも子供っぽく安物な髪飾りを身につけている。花を模した髪飾りである。これは幼い頃、私がまだ公主ではなかった頃に幼馴染の少年から貰ったものだ。彼の事を私は好いていた。彼も私を好いていてくれたかもしれない。だが私はこの髪飾りを貰ってすぐに別の土地へ移り住む事となった。それ以来、彼とは会っていない。出来れば私は彼ともう一度会いたいと思っている。もしも、もう彼がこの世にいないのならば諦めるが未だ生きているのならば。

「彼女が?」

頭上で声がした為、思考を中断し顔を上げる。漸く兵士達は名のある将を連れて来たらしかった。その将が私を見下ろしていた。随分と優男だ。しかし身体は中々丈夫そうで一筋縄ではいかないのであろうという事が窺えた。
自国の将ですらあまり把握出来ていない私にはこの男が誰だか分からない。よって蜀の将の名をほとんど知らない。辛うじて名を知っている者達はこの世にはもう居ない。戦からずっと遠ざけられていたのだから当然の事ではあったが、事前に調べておくべきだったと今更ながら後悔する。

すると男は私の髪飾りに目を留め、驚いたような顔をした。そして私の顔をまじまじと見つめる。一体何だというのだ。私が公主だと気がついたのだろうか。

「……月夜?」

ああ、やはり私が公主だと気がついたのか。そう思って男を睨みつけようとしたが何故かやけに男は狼狽していた。たかが敵国の公主相手に狼狽する必要などない。意味が分からない。そういえば男は先程この髪飾りを見つめていた。何故だろう。そこまで考えてふと一つの答えに辿り着き、私は身体中に衝撃が走るのを感じた。

まさか、そんな、馬鹿な、しかしもしもそうならば納得がいくものがあるではないか。それに男はよく見ればどこか面影がある。何という事だ。

「……伯約?」

その名を呟くと男の目に揺らぎが見えた。これは間違ってなどいない。確実にそうなのだ。私の頭は混乱していた。男もそうに違いなかった。いっそ夢であってほしいものだが、この男こそ、私の会いたかった幼馴染、姜伯約その人だ。

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