メーデー、メーデー、(前編)


明確にそれに気付いたのは、しばらく経ってから。
最初は、ありえないと思った。だって俺男だし。普通ありえねえだろ。
いつも通学の為に乗っている満員電車の、いつもの車両のいつもの場所。座席を支えるためのバーに少し寄り掛かって過ごす。
今日もいつものように数十分の道のりを過ごしていたのだが、いつもと違うものがあった。
もぞもぞ、と俺の後ろの、ちょうど腰のあたりでなにかが蠢いている。おそらく、人の手だろう。
そのときは何も感じなかったし、感じたら逆に自意識過剰だと自分で恥ずかしくなるところだ。だが、

「……っ!?」

その手が完全に意識して腰や足を撫でてきたときにやっとこれが痴漢であると気付いた。

(嘘だろ。俺男だっつの!)

それともまさかそっちの気がある奴なのだろうか。そうじゃない限りこんなにガタイのいい確実に女には見えない奴に痴漢を働いたりはしないだろう。
腰や足をいやらしく撫でていた手はいつの間にか尻のほうに移動していて、怒りと情けなさと少しの恐怖に涙が滲んだ。
いつもの自分なら思い切り手を捻り上げて次の駅で引き摺り下ろしてやるくらいはするのに、そのときはショックとか恐怖とかが大きくて、何も出来ないまま固まってしまった。
その間にも痴漢はどんどん触れてくる。首筋にあたる生温かい息が気持ち悪い。
次の駅まであと5分。降りる駅まではまだ10分ほどある。
俺はどうなってしまうんだろうか。もしかして、このまま知らない奴にされてしまうんだろうか?しかも男に。そんなの絶対に嫌だ。
でも結局どうすることもできなくて、ぎゅうときつく目を閉じる。誰か、誰か、たすけて。届くことのない思いを心で叫びながら。
だが次の瞬間、俺にとっての救世主とも呼べるべき存在が現れることになる。






「っ!」

ぐい、と力強く引っ張られ、気付いたら俺はドアを背にして立っていた。
今まで俺がいた場所には見たこともない茶髪の男が立っていた。おそらく、こいつが俺を引っ張ったんだろう。
そいつもこちらの視線に気付いて、安心しろとでも言うようににっこりと笑いかけられた。それに少し気恥ずかしくなって視線を下に逸らした。
それでも礼は言わなければと思って、俯いたまま視線だけを上にあげ、小さな声で「ありがとうございます」とだけ言った。

「いえ」

そいつはそれだけ返してまたにっこりと笑った。その笑顔に少しどきりとした。こいつ、絶対もてるんだろうなあ。
男の俺から見てもイケメンだし、こうやって自然と知らない奴を助ける辺り性格もよさそうだ。
それに、俺の行っている高校の近くにある進学校に行ってるみたいだ。制服が確かこんなのだった気がする。
背だけが高くて強面で、至って普通の高校に通っている自分とは全然違う。こんな完璧な奴がいていいのかと少し悲しくなった。
そんなことを考えたりしている内に降りる駅に到着し、流れに押されて電車を出た。そいつも出たんだろうけど、あまりの人の多さでわからなかった。
その時は、それきりだと思っていたが、それから毎日のように会うことになる。





 *





必死に勇気を奮い立たせて行動したことだった。
いつも学校に行く為に乗っている満員電車の、いつもの車両のいつもの場所。ドアを背もたれにして数十分を過ごす。
いつも前には、緑がかった黒髪で金色の瞳をしたやつが、バーにもたれかかっていた。ずっと前から、気になっているのだ。
始めは、背も高いしガタイもいいし、切れ長の瞳もなんだか全てが男らしくて、自分とは全然違うと羨ましく思っていただけだった。
だがそれがだんだんと膨らんでいき、話してみたい、声が聞いてみたい、仲良くなりたい。そんな普通の感情から、明らかにやましい類のものに変わっていった。
始めは自分の気持ちに困惑していたが、1度吹っ切れてしまうと案外開き直れるものだと知った。
その淡い恋心を抱いている相手が、まさに自分の目の前で痴漢という卑劣な行為を受けているところだった。
怒りで頭に血が上ったが、友人ならまだしも面識のない俺が手を出してもいいのだろうか。もしかしたらこいつの矜持を傷つけてしまうのではないか。嫌われてしまうのではないか。そう思うと、動けなくなった。
でも、そいつが恐怖で真っ青になった顔に涙を浮かべているのを見たとき、今まで思っていたこと全てがどうでもよくなった。
助けないと。それだけが頭を支配して、気がついたら行動を起こしていた。






そいつの腕を引っ張って、その反動を利用してドアの方へ押しやった。そいつはぽかんとした顔で俺を見ていた。思いもよらない行動に驚いているのだろう。
何か言おうと思ったけど、いざ話すとなると焦って何も出てこなくなって、結果笑いかけるだけになってしまった。
すると、そいつは少し顔を赤くして俯いた。その表情が、すごく可愛いと思った。
にやけそうになる顔をどうにか抑えていると、そいつが目だけを上にあげる、所謂上目遣いで「ありがとうございます」と言った。
その表情は反則だろ、と思いながらそれを必死に顔に出さないようにして「いえ」とだけ言った。
もっと気の利いた言葉を掛けられればよかったのだが、俺にもそんな余裕がなくて、また誤魔化すように笑いかけた。
これって、仲良くなるチャンスじゃねえか!と思ったのだが、非常にも電車は降車駅に着き、押されるがままに電車を降りてしまう。
咄嗟に周りを見渡したが、もう姿はなく、タイミングの悪さにがっくりと項垂れた。
明日もあそこに乗ろう。そう思いながら、少し小走りで学校へ向かった。





 *





次の日、俺はいつもの時間の電車の、いつもの場所に立っていた。
時間をずらそうかとか車両を変えようかとかいろいろ思ったけど、そんなもんの所為で習慣を変えるのがむかついて、結局いつもの場所に乗ることにした。
今日は痴漢もいないらしく、少しほっとしていると、開いたドアから昨日の茶髪が乗り込んできた。

「あ、」

つい声を出してしまい、そいつもこっちを見た。どちらも何を言うでもなく、気まずい時間が流れる。
その内にドアが閉まり、電車が動き出した。するとそいつは俺の腕を軽く引き、昨日のようにドア側へ押しやった。
また痴漢に遭わないようにしてくれたのかと思うと、こいつはどれだけお人好しなんだと驚いた。
それと同時に、自分にはない優しさを持ったこいつに、羨ましさの他に、得体の知れない感情が滲み出てくるのを感じた。ふわふわと、ふわふわと。緩やかに進む雲のように。





 *





次の日、俺はいつもの時間の電車に乗るために、ホームに並んでいた。
もしかしたら時間や車両を変えているかもしれないと思ったけど、見たところプライドも高そうだしいるはずだと思いたい。
少し緊張しながら電車を待つと、ようやく電車がホームに入ってきた。いつも通りの満員電車だ。
ゆっくりと電車が止まる。あまり乗る人がいないこの駅では、ぎりぎりに行っても1番前に並べる。今日も1番前だ。だから、ドアの中がよく見えた。
いた。いつもの場所に。よかった。少し安心してほっとため息をついた。
ドアが開き、平常心を装い乗り込む。すると、向こうも俺に気付いて「あ、」と声を出した。
今日こそ、今日こそちゃんと話をしようと思っていたのに、そいつの顔を見ると頭が真っ白になってしまった。どうしよう、どうしようとそんなことばかり考える。
頭はいいはずなのに。こういうときに何も出てこないなんて何の意味もないじゃないか。
結局何も言えずに、ただまた位置を入れ替えるだけだった。
駅から学校へ向かう道を歩きながら、俺はこんなにも情けない奴だったのかと嘆いた。





 *





そんな日々が毎日続いて、俺のあの茶髪に対する想いもゆっくりと加速していった。
これが恋だと気付いた時は、当たり前だけど戸惑った。だって、俺も相手も男なんだから。
でも、結局いつも考えるのは名前も知らないあいつのことで。もう認めるしかないと理解することにした。
ただ、言うつもりはない。そんなの、気持ち悪がられて終わるに決まってるから。





 *





そんな日々が毎日続いて、俺は自分の情けなさに毎日のように嘆き続けた。
今日こそ、今日こそ声をかけようと何回思ったことだろう。結局声を掛けることは叶わずじまいだったのだけれど。
いつもいつも名前も知らないあいつのことを考えて、どう声をかけよう、そればっかりを悩み続けた。





 *





ある日、いつもの駅になってもあいつは乗ってこなかった。どうしたんだろう。何かあったんだろうか。
そこで俺は、少し落ち込んでいる自分に気がついた。あまりにも毎日会っていたから、それが普通なんだと、そう思い込んでいた。
本当は、そんなこと全くなくて、会えるだけでも奇跡のようだったというのに。もしかしたら俺に会うためなのかと、舞い上がってしまっていたのだ。なんて、恥ずかしい。
いつももたれかかっているバーをぎゅうと掴んで、頬を押し付ける。ひんやりとしたバーが、頬の熱さを和らげてくれた。そのとき、
最近めっきりなくなっていた感覚に、背筋がぞわ、と戦慄いた。
きた。それしか思えなかった。久しぶりのことにパニックになってしまい固まってしまう。
その間にも這うように動く手は腰や尻あたりに触れる。
どうしよう。今日はあいつもいないのに。俺が、自分で、どうにかするしかないのに。動けない。怖い。怖い、こわい、こわい…!






これ、前にもあったなあ。
急に腕を掴まれると引っ張られ、痴漢との間に誰かが入った。目の端にふわふわとした茶髪が目に入る。いつもこの時間に、見ている茶色が。
弾くように顔を上げると、いつものあの顔が近くにあった。ただひとつ、違ったのは、

「大丈夫か?あんた」
「へ、」

今まで全く声をかけられなかったのに、今日はあっさりと声をかけられた。
それに驚いたけど、よく見ると、違う。似ているけど、瓜二つだけど、どこか違う。

「あんた、」
「ん?あー、気付いた?俺さ、あんたがいつも会ってるやつの弟」

おとうと、と言うと、そいつはにっこりと笑った。それも似てはいたけど、やっぱりどこか違った。





 *





「あー、ライルの奴、ちゃんとやってっかな…」

熱でぼうっとする頭で取り留めなく考えるのは、今朝のこと。
熱が出て学校を休むことになったのはいいのだが、いつも一緒に乗っている(自分はそのつもりの)あいつが気になって気になってしょうがなくなって、ライルに頼み込んだ。助けてやってくれと。
ライルは文句を言いながらも了承してくれたから、そのときは安心しきっていたのだが。段々と不安になってきた。
約束を破られていたらどうしよう。それであいつが痴漢に遭っていたら?そう思うと気が気じゃなくてもう寝ていることさえできなくなってきた。
そうだ。メール。メールしよう。ああでも俺あいつのアドレス知らねえじゃねえか!ここでも自分の情けなさを呪うことになるとは。
じゃあライルにメールすればいいじゃねえかと思い立ち新規メールを開こうとしたとき、マナーモードにしていた携帯が震えた。画面にはメール受信という文字が躍っている。
慣れた手つきでメールを開くと、差出人はたった今メールを送ろうと思っていた弟からだった。

『兄さん。体の調子はどう?』

まず自分の風邪のことを気遣ってくれた弟に感謝した、のだが。

『ハレルヤのことなら安心して。痴漢に遭ってたけどちゃんと守ったから。だから安心して寝てろよ』

まず思ったのは、ハレルヤって誰だ。その次に思ったのは、なんで名前を知ってるんだ。





 *





「兄さんに頼まれたんだ、あんたを見ててくれって」
「へえ、」

友達でもない奴にそこまでするなんて、どこまでお人よしなんだ。

「あ、俺、ライル・ディランディっていうんだけど、あんたは?」
「ハレルヤ・ハプティズム」
「へえ、わかった」

それだけ言うと携帯を開いて何かを打ち始めた。別に無礼だとかは思わない。まず初対面だし、助けられた恩人でもある。
ライル・ディランディか。じゃああいつもファミリーネームはディランディになるのか。今までなにも知らなかったあいつのことを思いがけず知ってしまって、少しむず痒くなった。
ライルが携帯を閉じた頃には、ちょうど降りる駅につく頃だった。まあこいつと話すのもここまでかと思い、また流されるままに電車からでようとすると、急に腕を掴まれた。

「折角だし、一緒に途中まで行こうぜ」

俺の腕を掴んだライルが笑顔でそう言った。
断る理由はどこにもなかった。もしかしたら、あいつのことが聞けるかもしれないから。





 *





「ただいま」
「おかえり!ちょっと来い!」

ライルが帰ってくるのをずっと待っていた俺は、帰ってきたライルをリビングへ押しやった。

「なんだよ、兄さん」
「え、えっと、その、だな」

改めて問われるとなんて言えばいいのかわからなくなる。
しどろもどろになる俺にライルは少し笑って、

「わかってるよ。ハレルヤのことだろ?」

そうのたまった。そうだよ、それだよ!そのことなんだよ!

「兄さんの言いたいことはわかるよ。なんで、名前を、知ってるんだ。だろ?」
「う…そうだよ」
「ていうか普通聞くだろ。俺兄さんもハレルヤもお互い知ってるもんだと思ってたから驚いたよ」

悪かったなへたれで。そういう意味を込めて睨んでやると、ライルは肩を竦めた。

「あと携帯の番号とアドレスも知ってるけど?ほしい?」
「い!…らない。本人に聞く」

本当はすごくすごくほしかったけど、他人から聞くなんてまた情けない真似はしたくない。

「へーえ?じゃあいいけど」

にやにやと笑うライルに少し腹が立つ。なんだその俺の方が親しいみたいな言い方は。俺の方が親しい、とも言えないけどさ。

「なあ、兄さん」
「…なんだよ」
「ハレルヤ、いいな。俺好きになったかも」

………は?
呆然としていると、ライルがにっこりと笑った。いや待て、ちょっと待て!なんだそれ!


続く







1話完結に出来なかったので、後編に続きます
結局どこでもへたれなニールさん








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