どうか、生き抜いて
午後6時、天気は憎いくらいの快晴。目の前の太陽は今日最後の光を発して消えようとしている。今逆方向を見たら、暗い夜が空を侵食しているのが見えるだろう。
夕焼けがとてつもなく綺麗に見える寂れたマンションの屋上。そこに今俺はいる。ただ、今から行おうとしているのは、それを二度と拝めなくなる行為だ。
柵の向こうの細い隙間に両足を乗せ、手はまだ未練たらしく背にある柵を掴んでいる。その手を放して前に体重をかければ、終了。
俺が今から行おうとしているのはそういうこと。つまり、自殺、ということだ。
理由は特になかった。いや、特にないということが理由だったのかもしれない。
友達がいないわけでもない。就職難のあおりにあったというわけでもない。失恋なんてもってのほか。
自分で言うのもなんだが顔がよく社交性もあるし、就職先だって誰よりも早く決定した。可愛い彼女との交際も順調だ。
なら、どうして。誰もがこう思うだろう。だが、言い換えるとこうだ。
顔と表面の性格だけで集まった友人と言う名の他人。少しその会社好みの人物を演じただけで易々と取れた内定。まさしく表面しか見ない恋人。
ああ、理由は、あった。今気付いた。俺は、もう俺を演じるのに疲れたんだ。
家族がいれば変わっただろうが、生憎実家は滅多に帰れないくらい遠くだ。でも、1回くらい帰っておけばよかったかな。
父さん、母さん、兄さん、エイミー。俺の内面も全て知った上で俺を愛してくれたのは彼らだけだ。今までも、これからも。
始めは一人暮らしに憧れや期待を抱いたものだが、それも始めの内だけだ。段々と寂しさが募り、積もり、いつしかそれはただの虚無感となった。
わかっている。これはただの逃避だ。俺は、情けない人間なんだ。
この行為は必死に生きようとしている人に対しての冒涜だ。現実と戦っている人たちへの、最大の冒涜。わかっているさ。わかっている。
そう、わかっているだけ。それだけだ。ただ、それだけ。理解しているだけで、背徳感など無いに等しかった。
そろそろ、考えるのをやめにしよう。そもそもこういうことを考えたくないからこうしているのだ。
左手を柵から放す。前に目いっぱい伸ばせば、太陽に届くかのような錯覚を感じた。
伸ばした手を拳銃を構えるように形作る。俺をこの世に生んだ神様に、一発くれてやるよ。ただの思いつきだけど。
だが、俺が構えたまさにお手製の拳銃は、その威力を発揮することなく崩れることになった。
「てめぇ!なにしてやがる!」
逆に神様に銃弾を食らったような気分だ、ちくしょうめ。
自分に向けて怒鳴られた声に、さすがに振り返るしかなかった。
そこには想像通り、夜が夕焼けを侵食していく姿があった。侵食されたところには、ちかちかと星が存在を主張している。
その中に、俺の知らない人間が1人。夜色に溶け込んでしまいそうな黒髪に、金色の目が星のようにちかちかと輝いている。死んだような色を放つ俺とは違う、生きた瞳だ。そこに目いっぱい怒気を奔らせてこちらを睨んでいる。
「なにって、見てわかんねえ?」
どうせ死ぬんだ、ここでこいつにどう思われようがもうどうでもいい。だから、わざと挑発的に言葉を返した。
「見てわかるから言ってんだ。やるならよそでやれ。迷惑だ」
本心から出たとわかるその言葉に驚くと同時に苛立った。そりゃあ迷惑なのはわかる。でも、なんでそれを初対面の奴にずけずけと言われなきゃいけない?それにこいつ、止める気はないんだな。
「迷惑?ここにお前の家があるのか?そりゃあ悪かったな」
こんな寂れたところに住んでいる、ということを小馬鹿にしたような態度で言ってやった。もっと怒ればいい。早く死ねと言えばいい。だが、
「…俺の家はねえ。でも、ここは駄目だ」
答えは思っていた通りだ。でも、そいつは急に怒りが萎んだように小さな声になっていった。怒りで爛々としていた瞳に翳りが見えた。
一歩、また一歩とそいつが近づいてくる。来るな、止まれ。そんなことも言えないくらいそいつの歩みは覚束なくて、まるで俺じゃなくそいつが死に向かっているような感覚だった。
俺の目の前でそいつは歩みを止めた。ぽす、と足元で音が鳴る。音のしたほうを見ると、小さな花束が置いてあった。持っていたことも、気付かなかった。
「死んだんだ、ここで。俺の友達が」
蚊の鳴くような声で発されたそれは、ひどく俺の心の中に染み込んでいった。
「ここは、夕焼けがすごく綺麗だから、誘ったんだ。一緒に見ようって」
声が段々と揺れていく。俯いていて表情は窺えないが、泣いている。それだけはわかった。
「そしたら、丁度そこであった強盗の犯人が逃げてきて、俺たちは人質にとられた」
てっきり、その友達も自殺したのだと思っていた。でも、彼から語られるのは俺の想像を超えるような話だった。
「警察が一気に雪崩れ込んできて、犯人が驚いて、落ちたんだ。そのとき抱えられてた俺の友達と一緒に」
俺は、自分が自殺をしょうとしていたことも忘れて、初対面であるそいつの言葉を聞き入っていた。
「友達は、死んだ。犯人が、自分の身を守ろうとして、そいつを下敷きにしたらしい」
近所であるから、その事件は知っていた。当時中学生の男子が犯人の下敷きになって死んだと。犯人も助からなかったらしい。もう1人の人質の男子は助かった。
俺の知っている情報はこれだけだった。そして、俺はこれを他人事と聞き流していた。
その他人事と聞き流していた事件が、今ここで、はっきりとした記憶となって刻み込まれる。
「俺のせいだ。俺が、ここに誘わなかったら、あいつが死ぬことはなかった。せめて、俺が、おれがしんでいればよかったのに」
気付けば俺はそいつを抱きしめていた。俺は柵の向こうにいるから柵越しだけど。できるだけ強く、そいつの顔を俺の胸に押し付ける。
何してんだ俺。なんでこんな、初対面の奴に感化されて抱きしめてるんだ。なんで、どうして、この頬を伝うものはなんだ?
「死ねばよかった、なんて、そんなこと言うな」
「…死のうとしてた、てめえに言われたく、ねえ」
「だよなあ」
へらり、と笑うとそいつは少し驚いたようにこちらを見上げた。なんだ?何か驚くようなことしたっけ?
「…あんた、普通に笑うんだな」
「え?」
「さっきから馬鹿にしたような顔ばっかだったから」
そういえばそうだったっけ。ついさっきのことなのにもう忘れていた。
「まあ、これが素だし」
社交的で人懐っこいと評判の俺の、素の表情。人を苛立たせるようなへらへらとした笑み、他人に関わりたくなる癖。全てを出したのは久しぶりだった。
「ふうん。さっきより、ずっといい」
涙を湛えた瞳で柔らかく微笑まれる。お前も、さっきより今の方がずっといいじゃねえか。
「あーあ。なんか死ぬ気なくした」
そいつを放し、ひょい、と軽く柵を飛び越えた。そこに、さっきまであった虚無感はなかった。
「なんか、悪かったな。嫌なこと思い出させて」
頭ひとつ低いそいつの目をまっすぐと見て謝る。そいつはかぶりを振って「嫌なことじゃない」と言った。
「俺がこのことを嫌なことだと思ったら、そいつのことを思い出すこともできない。しても、嫌なこと、としか思えなくなる。そんなの、駄目だ」
「…そうか」
さっきまで俺のせいだと言っていた奴だとは思えないほど、そいつの表情は大人びていて、いろんなことが吹っ切れたようにも思えた。
そう言う俺も、吹っ切れた。何がと言われればよくわからないけど、先ほどからは考えられないほど心の中は晴れやかだった。
「なんていうか、ありがとうな」
「は?何が」
礼を言うと、そいつは何のことかわからない、と言うように目を真ん丸と開いてこちらを見つめていた。ころころと変わる表情は、やはりまだ子どもなのだということを感じるようだった。
「お前のおかげで、もう少し頑張ろうと思った」
「…そっか」
そいつは満足そうに笑んだ。また、大人びて見えた。子どもらしいのか大人びているのか。ああ、今は丁度、おとなとこどもの間なのかもしれない。
「俺は、生きる。何があっても。あいつの分まで。だからあんたも、簡単に死のうとか思うな」
はは、高校生に諭されてるよ、俺。だっせえなあ。
「わかった。でも、なんでそこまで言ってくれるんだ?」
「…別に、深い意味はねえよ」
そう言ってそっぽを向いてしまうもんだから、また子どもらしいところを見つけたと微笑んだ。
もう太陽は完全に隠れて、夜が空を支配していた。ぽつぽつと街灯が灯る道を2人で歩く。
「また会いたい。駄目かな」
駄目元だったけど、そんな提案をしてみた。俺はこいつのおかげで吹っ切ることができた。これから、進むことができると思う。だから、また会いたいと思っていた。
「ん、いいけど」
思ったよりあっさりと承諾された。少し拍子抜けだ。だって、俺と会ったらあのときのこと、思い出すんじゃないのか?
…ああ、そうか。こいつは全て、受け止めているのか。なんて強い。見習いたいくらいだ。
「じゃあさ、番号とアドレス交換しようぜ」
そう言って携帯を取り出すと、そいつも同じように携帯を取り出した。そして、難なく番号とアドレスの交換は終了した。
「ハレルヤ・ハプティズムね、了解」
携帯の画面を見る。そこでやっと名前を知った。
「ああ、名前言ってなかったけか。てめえは…ライル・ディランディか」
俺も名前を言った気でいた。結局会ってしばらく名前も知らないまま気を許しちまったってわけか。
「まあ、これからよろしくな。ハレルヤ」
「おお、こちらこそ」
変なところから生まれた変な繋がりは、何よりも強固な絆となって俺の心を支えてくれた。
end.
すごい時間かかってしまいました。
ずっと気分をネガティブにして書いていたので体力使いました…