Un Child
久々にさ、呑まねえ?その短いメッセージが届いていたのは夜の七時だ。仕事が終わって、携帯を見た頃にはもう深夜十二時を少し過ぎていた。もう随分長い間、彼とは会っていなかった。それなのに、未だに携帯番号を変えず、お互い登録しているとわかって、名前はそっと一人自嘲するように笑った。彼の名前が表示された画面を指でなぞる。みゆきかずや、と小さく呟いた名前の声は暗闇の中に静かに溶け込んだ。
今仕事終わった
そう送ってから数秒後、すぐにぶるると携帯が振動し、
あの店で待ってる
それを見て、名前はすぐに駆け出した。仕事の疲れはどこかに吹き飛んでしまったかのように身体は軽くなっていた。
そこは会社のすぐ近くにある小さな居酒屋さんで、有名人御用達のお店であった。昔よく二人で行っていた店だった。
名前は店の前に着いたのはいいが、慌てて来たので髪や服がだらしなく乱れていた。店の前でそれを正して、弾む息を整える。この少しの移動で、汗をかいて疲れてしまう自分はもう若くないと感じ小さく苦笑する。名前は大きく一つ深呼吸をすると、夜風が頬を掠めた。もう、秋の臭いが背後から迫ってきているのを感じながら、長く垂れ下がっている暖簾を潜った。
入ってすぐに、人影を見つけた。どうやら貸し切り状態らしく、花の金曜日というのにカウンターには一人しか座っていなかった。名前はその隣にゆっくりと近づく。こつこつと床を鳴らすヒールの音がこの静かな空間にやけに響いた。
御幸は気付いていながらもこちらに見向きはせず、のんびり酒を呷っていた。既に徳利を一本頼んでおり、もう一つ置かれている酒杯には薄く膜が貼っていた。
名前が御幸の隣に腰を下ろしたと同時に、御幸は口を開いた。
「久しぶり」
御幸は前を見つめたまま微笑んだ。
もう十年ぶりだと言うのに姿は何も変わっちゃいなかった。纏う雰囲気が、年を増してより色っぽく大人になっていた。
「うん、久しぶり」
名前も御幸に倣って前を向いたまま言葉を放つ。そういうところも、お互い変わっていない。変わっていないところを見つける度に胸が締め付けられ苦しくなった。それと矛盾するように、ほっとする安心感も生まれた。
「ほら、お前も呑めよ」
「うん、じゃあ遠慮なく」
すっと前に差し出されたのは、もう既に注がれていた杯であった。名前は小さくお疲れ様、と御幸の持ってるそれに軽く当てて一気に呷る。なめらかな甘味が鼻腔を擽り、旨味が舌にほんのり残る。文句の付け所の無い美酒であった。思わず美味しいと呟けば、御幸はそうだろ?と嬉しそうに頬を上げて名前を見た。名前もその視線に気付いて、御幸に視線を向けた。その瞳はどこまでも澄み渡っており暖かな光を宿していた。
「元気にしてた?」
「うん、相変わらず仕事ばっかだけど、充実してる。一也は?」
「んー、俺は引退を視野に入れながらやってるよ」
名前はその言葉に驚いて目を見開くと、
「俺もう四十手前だぜ? もう肩とか背中とかバッキバキ」
若い奴等には敵わねーよ、と軽やかに笑って再び酒杯を持ち上げた。
「私たちも歳だね」
「まぁ、俺らも十年振りだしな」
「そうだね」
「ケータイ番号変えてると思ってた」
「それ、私のセリフ」
「お互い様か」
それから二人は口を閉ざして、再び前に向き直って黙々と酒を呷る。喉からするすると流れ込む美酒は五臓六腑に沁み渡り、身体の芯を熱くさせた。徳利はいつの間にか三本屹立している。
そんな沈黙の落ちた空間で、御幸は唐突に名前、と名前を呼んだ。
「あれからさ、結婚とかしてねーの?」
名前は持っていた杯を置いて、微笑を浮かべて答えた。
「うん、なんか付き合ってみてもうまくいかなくて…」
ダメだったや、最後にそう言い切った途端、胸の奥がカッと熱くなって、不思議と涙が出そうになった。咄嗟に再び笑みを作った。きっと、このあまりにも美味しい酒のせいで、いつもより心が敏感に感じやすくなっている。
「そっか」
御幸はそう呟いてから、「俺もさ」と言葉を紡いだ。
「名前と離婚してから、色々付き合ってみたよ」
そう、離婚してから、丁度十年が経とうとしていた。お互いに新しい人を見つけて結婚しても何にもおかしくない年であった。
離婚をしたのはお互いのライフスタイルが合わないからという理由であった。御幸はプロ野球選手として大活躍をしていたし、名前は仕事をばりばりとこなし会社の主力となっていて、それぞれが自分のことで精一杯だったのだ。喧嘩別れではなくて、お互いそれぞれの道を歩もうという前向きな離婚だった。周りからもなぜ離婚をするのかと騒がれたし、ニュースにまで『破局!』と報道されたが、私たちにとってこれが最善の選択だったのだ。それから一切の連絡を取らず、今日に至るのだった。
御幸は一旦言葉を区切って、息を吐き出した。そして続ける。
「でもさ、付き合っても、セックスしても何もかもを名前と比べちまってダメだった。行動、仕草、言動、容姿、もう全部だ。野球してる時以外は、ずっと名前のこと考えてたんだ。無意識のうちに」
名前は御幸の言葉を聞いてるうちにみるみる視界が潤んでゆく。一也、と呼んで声を出すが、言葉は唇の上で固まってしまう。
「俺、前よりも忙しくないし、お金は趣味も料理くらいしかねーから貯金有り余ってるし」
御幸は真っ直ぐ名前を見据えた。その双眸は逸らすことを許さない、強く光る意志があった。
「もう一回、結婚してほしい」
御幸は微かに震えてる名前の手を取り、以前返された環をそっと握らせた。前のプロポーズと離婚と同じ日に、同じ場所で行われたものであった。
名前は震える唇で、聞き取れるか取れないかの微かな声で、はい、と答えた。顔をしとどに濡らす涙のあたたかさに、感情がぶわりと込み上げてさらに溢れだす。
「二回目でかっこつかねーけど、よろしくな、名前」
「こちらこそ」
精一杯頷いた名前に、御幸の胸の中は愛しさでいっぱいになる。御幸はそっと名前の両頬を手のひらで包み込んで、涙で絶えず潤っている瞳にゆっくりと唇を落とした。
名前は、ゆらゆらと歪んだ視界の中で、笑いと泣きが入り交じった顔をしている御幸を捉えて、へらりと笑った。
変わらないね、私たち
紆余曲折を経て私たちは結局同じところに戻ってきた
きっと、この先は、もう大丈夫、