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こゝろのなかにかくしたもの

 『精神的に向上心のないものは、ばかだ』

 私は味噌汁に入れる長ネギを切っているとき、ふと頭の中にその言葉が閃光のようにひらめいた。
 この言葉は何なのだろう。考えを巡らすこと数秒。そして思い出した。高校二年生の頃、教科書でやった夏目漱石の『こゝろ』という作品の中にあったセリフだ。
 私は切ったネギとエリンギ、そしてお豆腐を順にぽとぽと鍋に落とし入れながらも、頭の中は高校時代に遡っていった。

 

 高校二年生の十一月中頃の肌寒い頃だ。
 国語の授業中、こゝろの『遺書と私』の文について、隣の席の人とお互い意見を言い合い、それをプリントにまとめ授業終わりに提出するといった内容で、たまたまその時隣だったのが倉持くんだった。必要事項しか話さない関係だが、不思議と気まずいとは思わなかった。机を移動させてお互い向かい合うように机をくっつけた。皆が一斉に机を動かし始めたので教室が騒がしくなる。
 どうせ授業なんて真面目に聞いていないだろうからとりあえず私から適当に感想でも言うか、と軽く考えて声をかけようと前を見ると、ものすごい真面目な顔をした倉持くんがいて私は驚いた。そして、私が口を開くよりも早く倉持くんが切り出した。

「なぁ、苗字はどう思った? これ読んでよ」

 机に頬杖をついて私を見た。私はその倉持くんの真剣な雰囲気に面を食らい、おどけた口調で「倉持くんってちゃんと授業受けるんだ」とにやにやすると、倉持くんはため息をつきながら「授業ちゃんと聞かねえと部活できねーんだよ」とぶっきらぼうに言い放ち、シャーペンをカチカチと鳴らして芯を出す。確かに、元ヤンと噂されるわりには授業中眠っているところはあんまり見たことなかった。今まで知らなかった倉持くんの一面が垣間見えた気がして、私は少し嬉しくなった。その時きっと私の考えが顔に洩れていたのだろう。「ボケっとしてんな」と足に軽く蹴りを入れられた。こうやってきちんと話すのは初めての相手に何てことするんだコイツは、と私は頬を膨らませ唇を尖らしても効果はゼロで「苗字が俺に対して失礼なこと考えてるのがわりー」とおおよそ的を射た答えが返ってきたので、私の反抗心はしゅるしゅると萎んでいった。
 さて、何だかんだで倉持くんとは話しやすいことが判明したので、ひとまず真面目に授業を受けようと私は先ほどの倉持くんの問いに答えた。

「先生が本当に自殺したのか、定かではないけれど、もし仮に自殺しているとしたら、残されたお嬢さんが一番不憫だなあって思ったよ」

 お嬢さんの中でも、特に親しい中であろう周りの男が二人も立て続けに亡くなり、残されたお嬢さんはどう生きていくのだろう。ちなみに授業では三部構成のうちの一部分しか載せられていないようなので詳しくはわからないのだけれど。
 倉持くんは私の言ったことに神妙に頷きながら、シャーペンを紙に走らせた。私は自分の意見を倉持くんがどう書いているのか知りたくなってちょろっと覗くと、彼は持ち前の反射神経でさっと手で覆い隠してしまった。わかったことがある、倉持くんはケチだ。私は見ることを諦めて自分の意見を書き込んでいると、倉持くんが口を開いた。

「まあ、確かにそうかもしれねえな。けどよ、その後先生とKのこと綺麗サッパリ忘れて、いい男見っけて、新しい人生歩めばいいんじゃねえの?」
「なんか情緒の欠片もない話になってきたね」

 ロマンもへったくれも無い返しに思わず笑ってしまった。でも倉持くんの言った通りかもしれない。それがお嬢さんにとって幸せなのかはわからないけれども。

「じゃあ倉持くんはどう思った?」

 私は端的に訊いた。倉持くんは、あーと小さく唸ってからぽつりと呟いた。

「俺先生とKの気持ち、ちょっとわかる気がすんだよ」

 私は倉持くんから発せられた想定外の言葉に目を瞬いた。倉持くんは顎を少し上げ、軽く宙を見つめながら続けた。

「もし俺がKでお嬢さんも先生も同じくらい好きで、自分がいない方が上手くことが回るんじゃないかって考えた時、自殺までは勿論しねえけど、身を引いちまうと思うんだわ」

 私は話している倉持くんの顔から目が離せなくなってしまった。なんて、なんて寂しそうな顔をしているのだ。周りの音も、倉持くんの声もどんどん遠のいていく。

「でよ、先生だったとしても、Kを死なせてまでお嬢さんのこと欲しくなかったとしたら、こうなっちまうんじゃないかと思うわけだ」

 倉持くんは私を見た。視線が絡む。すると倉持くんはほんの一瞬だけバツが悪そうな顔をして、私から視線を逸らした。

「苗字、顔ぶっさいく」

 全く失礼なことを言う。私は言い返した。

「今の倉持くんに言われたく無いかな」

 倉持くんは自覚があるらしく小さく舌打ちをして、それっきり黙ってしまった。倉持くんとの間に妙な空気が流れる。私のプリントは相手の意見のところが未だ空白のままだった。なんとかして埋めなければならない。あともう数分で授業は終わってしまう。適当に埋めてしまおうと躍起になって文字を連ねながらも、ふと口をついて出てきた言葉があった。

「倉持くんの話聞くと、なんかこういう惚れた腫れたって今も昔も一緒だね」

 倉持くんが私を一瞥して、微かに聞き取れるぐらいの声で洩らした。

「恋愛に今も昔もねえだろ」

 それから倉持くんは一切私の方を見なかった。私はプリントに書き連ねた文字を消して『倉持君:恋愛は今も昔も変わらない。』と新たに書き記して提出した。そして、授業終了のチャイムが鳴り響いた。

 この授業から約一ヶ月後、倉持くんが好きだった子は御幸くんのことが好きで、その子と御幸くんは付き合い始めたらしいという噂が学年中で駆け巡った。
 私はそれを聞いて、頭の中であの時の倉持くんの顔が点滅した。私は自分のことでもないのに泣きそうになった。あの時の言葉、声音、表情全てが彼の本音だったのだ。こゝろの中にひっそりと潜ませた彼の本音は私しか知らない。それを知ってしまった時から、私の中で倉持くんの認識が確固たるものに変わっていった。



「名前、鍋沸いてんぞ」

 洋一の声でハッと我に返る。味噌汁の鍋の蓋が下から噴き上げる圧力にカタカタと浮いていた。私はあわててコンロのスイッチを消す。ふつふつと漏れでていた泡は急速にしぼみ、浮き上がっていた蓋も落ち着きを取り戻したようにもとの場所に収まった。ほっと一息ついて、キッチンから彼を見る。彼は眉を寄せこちらをじっと見ていた。私は少し恥ずかしくなり、その視線から逃れるようにお味噌汁をお椀によそいながら言った。

「ごめん、お味噌汁沸騰させちゃった」
「それはいいけどよ、料理中にボケッとしてっとあぶねーだろ」
「うん、気を付ける」

 私は自嘲するように笑って夕食をテーブルに並べる。並べながらも、あの頃の洋一の寂しそうな顔が脳裏に焼き付いて離れない。それを振り払うように「じゃあ食べよ」と箸を持ち上げた。あのときはまだ倉持くん、と呼んでいたんだっけ。私は再び考えに耽っていると洋一がそれを見兼ねて唐突に訊ねた。 

「何考えてんだよ」

 口調は私を責め立てるようなのに、どこか不安も孕んでいた。そして「すっげー間抜け面してる」と彼は更に付け足した。私はそんなに酷い顔を晒していたのだろうか。いただきますと手を合わせてお味噌汁を啜る。いつもより少し酸味がするなあと思いながら、先ほどまで思い出していたことを口にした。

「高校生だった頃を、思い出してたの」

 彼とご飯を囲みながら、高校生時代を再び振り返る。 笑ったり、照れたり、少し怒ったりして昔話に花を咲かせる。私たちが出会ったあの頃を。
 私は頭の中にいる高校生の頃の彼にそっと語りかけた。もうあんな表情はさせやしないと。
 私は洋一の顔を見ながら、胸の奥で小さく小さく誓った。


title and sentence:夏目漱石