むかしも、いまも、これからも、
久々に会った御幸は相も変わらず胡散臭い笑みを浮かべて「よっ、久しぶり」と片手をひらりと振った。「おう」と相槌を打って、ジョッキに入っていたビールを呷った。喉から食道へ通過して胃に入る感覚がいつもより生々しい。やはりビールはキンキンに冷えたのでなければダメだ。舌にざらりとした独特の苦味が残った。野球部OB会で集まった面々は、酩酊状態でかろうじて話を続けている者がちらほらいるくらいだ。ほとんどがぐだぐだに酔っ払って床やテーブルに伏せている。
死屍累々とはこういうことを言うのかと、沁み沁みと思いながら辺りを見回す。それから腕時計をちらと見るとあと一時間程で終電がやってくる時刻だった。それまでに皆を起こしてやんなきゃな、と考えを巡らしている自分は相当お人好しだ。
「前、いいか?」
いつもは無遠慮な男が、態々訊ねるのには訳があるのだろう。俺は黙って肯いた。
「まだお前と今日話してねえなと思ってさ」
確かに、と朧気な記憶を辿る。御幸と二人きりというのは数年ぶりだ。メールでのやり取りはしていたが、高校を卒業してから疎遠になっていた。御幸の近況はスポーツニュースや新聞を通してイヤでも耳に入ってくるので態々聞く必要もなかったというのもある。
「もう、クリス先輩とは話したのかよ」
「ああ。沢村に譲った。て言っても、アイツ今頃クリス先輩の膝の上で寝てると思うけどな」
隣の座敷に視線を転じると、御幸が言った通りクリス先輩の膝の上に沢村が眠りこけていた。一方、クリス先輩は亮介先輩や増子先輩と静かに話していた。後輩としてあるまじき行為をしている沢村に、帰りにタイキックをお見舞いしてやろうと心に決める。
御幸はテーブルを挟んで目の前に座った。俺はなんとなく御幸と目を合わせずに、ほとんど空になったジョッキを見つめて言った。
「ってか今日テメェに会わなくても、結婚式でどうせ会うじゃねーか」
御幸の左手薬指に光る輪が眩しくて思わず目を細めると、それに気づいたそいつは綺麗だろ?と目元を柔らげてその輪をゆるりと撫でた。俺がうるせーよ、と小さく返すと御幸はありったけの幸せをかき集めたような笑みを浮かべた。初めて見せた表情に俺は少なからず驚いた。高校では見たこともないような笑みに、こいつは本当に結婚するんだな、なんて今更ながらに思った。
「まあまあ。俺はお前と話したかったんだよ、二人で」
中々機会ねえだろ、と呟く御幸の真意がなんとなくわかって、そうだなと応じながら再びぬるいビールを口に含んだ。それは生温くて不味かった。
「苗字は元気か?」
「元気だよ。最近は太ったとかいってドレスはいらねーと困るからってダイエットしてるらしい」
「相変わらずだな」
すぐに想像がついて、口角が自然と上がる。苗字は高校のときも、やたらと体重とか体型とかがどーのこーのといちいち気にしていた。体型について御幸と俺で散々からかった結果、一回本気で怒らせて二人で謝ったこともあった。あれからもう七年経ったのか。目を瞑れば、全力で駆け抜けた三年間の光景が甦る。俺たちの全てで、俺たちの青春で、ギラギラとそれは鈍く光って年を経るごとに自分勝手に記憶を改竄して美化される。その記憶の中の一コマで苗字はいつも笑っていた。
「倉持はさ、」
感慨に耽っていると、御幸は急に真剣な面持ちで切り出した。直感的に、何を言いたいのかわかった。俺は言われるであろう言葉に備えて誰が口をつけたのかわからないジョッキを傾けて残っていた氷をがりがりと噛んだ。冷たかったそれは口内であたためられて直ぐに溶けていった。
「好きだったんだろ?」
問い掛けているのにもかかわらず、絶対的な確信がある言い方だった。そして、この問いは高校のときからずっと訊きたかったことなのだろう。予想通りの言葉に俺は小さく笑って、その言葉に対して用意していた答えを吐き出した。
「訊くの、おせーっつの」
これ見よがしに溜め息を吐くと、御幸は珍しく困ったように眉を下げ口をへの字に曲げた。これも予想通りの反応だ。
「高校の時、倉持と絶対になんかあったんだろうなと思ってもアイツ何も言わねえから」
「訊けばよかったじゃねえか」
「訊いたけど答えてくんねえの」
テーブルにだらりと上半身を投げ出して情けない声で告白する御幸に、少しだけ気分がよくなった。こんな機会は滅多にないので、存分にからかって楽しむことにする。それを肴にして酒を呑むことを俺は赦されているはずだ。もうすでに随分の量を呑んでいたがまだ足りない。デンモクで酒を注文する。
「じゃあ俺も言わねえ」
「はあ?」
「墓場まで秘密にすんじゃねえの、苗字は。んでテメェは一生モヤモヤしとけ。そっちのがおもしれえ」
「ひっでーの」
そんな御幸の様子にゲラゲラ笑ってやると御幸は腕をだらりと伸ばして突っ伏した。そしてぶつぶつと独り言のように続けた。
「……今だから言うけどよ…。高校の時、まじで倉持のこと好きになったのかと思ったことあって、精神的に参ったときあったんだよ。そしたら俺、勝ち目ねーじゃん。野球しかできねえし。性格も倉持よりよくねえし」
御幸の口から溢れるように出てくる愚痴に、俺は目を丸めた。お前、そんなこと思ってたのかよ。御幸が俺に対して抱いていた気持ちを七年の時を経てこの場で知ることになるなんて思ってもみなかった。
実際、俺と苗字の間に御幸が思っているようなことは何も起きていない。俺が一方的に好きで、三年の最後に振られる前提で告白して、それはまあ見事に玉砕したという話である。本当にそれだけだ。俺が苗字の心に入り込む隙なんか最初からなかった。大袈裟に言ってしまえば、この世に生を受けたときからこれっぽっちもなかったのだ。
ふとその時、いつかの少女のつやりと濡れた瞳が脳内で閃いた。
「苗字の妹は元気か?」
俺の急な問い掛けに、御幸はのっそりと顔を起こしてこちらを見た。
「名前ちゃん?」
「いや名前は知らねーけど」
「お前、接点あったっけ?」
「試合、大体いつも苗字にくっついて観に来てただろ。そんときに何回か喋ったくらいだけどな」
高校一年の時から三年間、苗字の隣で練習や試合を食い入るように見つめる双眸があった。まだ小さくて小学生ぐらいのその女の子の双眸は、もう一人の立派な女の眼をしていて、フェンスを握り締めるように掴んでいる小さな手が似つかわしくなかった。そしてその姿はあまりにも自分自身そのもので、胸がちりちりと焼かれるような想いに駆られて見ていられなかった。叶わない恋をしているとわかっていても諦められないその純真無垢な心が、ゆっくりと目には見えない速度で自身の首を締め上げているなど知らずに。
あのときの彼女の姿が、何年も経った今でも忘れることができなかった。何気ないふとした瞬間に思い出して、今どうしているのだろうか、と頭の片隅で考えることがあった。
御幸が苗字と結婚すると知らせを受けたとき、真っ先に脳裏に浮かんだのはその苗字の妹だった。俺の勘なのだが、まだその子は御幸のことが好きなのではないかと漠然と思ったのだ。そしてこういう時の勘は、大体当たる。
「苗字の妹は、多分お前のこと好きだったはずだ」
御幸は目を見開いて、呼吸を止めた。ほんの一瞬、顔に動揺が走ったのを俺は見逃さなかった。
「すげえわ、お前」
ぽつりと洩らして、持っていたジョッキを降ろした。テーブルに結露した水がじわっと広がる。
「見えすぎるのも問題だな。しんどくねーの」
「お前に心配されたかねえよ。で、図星か?」
「わかってるくせに訊くなよな」
御幸は不貞腐れたように言ってむっと口を噤んだ。御幸も酒のせいで情に脆くなっているのかもしれない。いや、それだけではなく、長いこと一緒にいる太陽のように眩しい笑顔を振り撒く苗字に感化されたというのもあるだろう。
御幸は思案するようにしばらく視線を落としたまま名前ちゃんはさ、と言葉を紡ぐ。
「大事な大事な、妹なんだよ。昔も、今も、これからも、ずっとな」
胸に沁み入るような声音に、俺は何も言えなくなった。そーか、なんて適当な返事をして俺は再び空になったジョッキを見詰めた。静かな沈黙が落ちたとき、唐突に「失礼しまーす!」という店員のよくとおる声がして、俺達は咄嗟にそちらを向く。リズミカルにジョッキが二つ置かれ、空になったものは下げられる。
「よし、飲みなおそうぜ」
御幸は「これからだろ?」と付け足してこちらを挑発するようにニッと笑った。時計を見たらもう終電間近だ。今から皆を起こす労力を考えたら、朝まで飲んでしまった方が楽かもしれない。
その挑発に乗るようで癪だが、ここまで来たらとことん飲むことにする。御幸と俺はお互いに顔を見合って、新しく運ばれたジョッキを手に持つ。そして何も言わずにがちんとぶつけ合った。中に入った沫がぷつぷつと目の前で弾ける。その沫が、色鮮やかに目に映った。
あの少女も、俺と同じようにこういう何気ない景色が鮮やかに映るといいな、なんて自分勝手な願いを唇の上で囁きながら、酒を流し込んだ。安っぽい味のくせに、何故か美味く感じた。