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かくれんぼ

 朝一に硝子から珍しく電話がかかった。まだ布団から這い出る前で、何事かと思い電話に出ると、ただ一言、「名前が会いに来た」とだけ告げた。その声は平静を装っていたが、滅多に感情を露わにしないあの硝子が驚きを隠せないでいるようだった。回線の向こう側で息を詰めているのがわかる。名前は四年前に死んだのだから、驚くのは当然のことだった。
「……へえ。名前はまだそこにいる?」
「もういないよ。五条、」
 硝子はふと言葉を途切らせた。数秒の間を置いて「全然変わってなかったよ」とまるで独り言のように言った。その声は、何でもない風を装っているのに微かな細い糸のような執着が垂れていた。
「……だろうね」
 なんとか返した声は彼女にどう響いていたのか、五条にはちっともわからなかった。







 任務をいつもより早く終わらせて、過去の記憶を遡り、名前が生前に好きだと呟くように言っていた場所を片っ端から巡った。けれども、名前はどこにも見当たらなくて、その間にも刻々と時間だけは過ぎて行く。もう空には赤にうっすらと暗い青が入り混じっていた。

 そういえば、名前はこうやって一抹の期待を抱かせるのがいつもうまかった。そして絶望に突き落とされることがわかっていながら、その期待を淡く望んでしまうのだ。
 両想いだろうと確信を得て告白するも、振られて深く落ち込んだ。なんとか付き合えたのは三回目の告白の時だった。そのとき「悟の粘り勝ちだね」と傑がからかうように笑って祝福したのを今でもよく覚えている。それから二十四歳を迎えた名前に指環を与えてから数ヶ月後、彼女は呪霊にあっさりと殺されてしまった。その知らせを受けたときだって、まだ息はあるから助かるかもしれないと伝えられていたのに、名前はそれから間も無くして息を引き取った。高専に駆けつけた時には、硝子が表情もなくただ名前を見下ろしていた。あんな硝子の顔を見たのは初めてのことだった。
「名前が冷たいんだ」
 呟かれた言葉には、現実味がなくふわふわと浮いていた。名前は左半身全てを失っていた。それでも受け入れられずに「名前」と呼んだ。勿論返事は返ってこない。恐る恐る名前に触れると本当に冷たくて、ようやっとこの世界のどこにも名前は存在していないのだと、どこか遠くの出来事のように思った。そして彼女の右手に握り込まれていたと硝子から手渡された指環は、紛れもなく五条が彼女に贈ったものだ。手のひらにころりと乗せられたその指環は、持ち主を無くして所在無さげに見えた。

 五条は自嘲の笑みを浮かべて、その終わりの見えないかくれんぼを切り上げた。どうせまた来年の誕生日になれば会えるのだから、いつも通りその日が来るのを待てばいい話だ。そう割り切っているにも関わらず、未練たらしく硝子からかかってきた電話の内容を頭の中で反芻しながら家路を辿った。

 家に着くと白いワンピースを着た名前が生前と同じようにソファで寛いでいた。帰ってきた五条に気付いた名前はゆっくりと顔を上げて「お帰り」と笑いかけた。あまりに突然の出来事に、脳は途中で考えることを放棄して、四年ぶりに「ただいま」と自然に返事をしていた。
 毎年、名前の誕生日のときだけ神様の気紛れで五条にだけ見せる幻覚なのだと思っていた。けれど、硝子も見たのだからそういうものでもないだろう。「今どういう状態なの」と彼女に訊ねても「わからない」と小さな子どものように首を横に振る。
 彼女の姿からは呪いの禍々しい気配は視えないし感じられない。どちらかというと、幽霊とかそういうものに近い存在なのだろうか。そもそもこれは現実なのだろうか。硝子も五条も都合の良い夢をみているだけという可能性もある。そしてこの四年間、五条が傍にいてほしいと柄にもなく藁にも縋るような想いで胸の内で願ってしまったから起こったことなのだろうか。正直に白状すると、自分でもよくわからなかった。死んだ名前が目の前にいる。ただそれだけの話だというのに。
「愛ほど歪んだ呪いはない、ってね」
 いつの日か、生徒に言い放った自分の言葉をもう一度繰り返して、落ち着こうと頭を掻いて大きく息を吐いた。
 そんな五条の胸中など露程知らない名前は、まだ処分できずにテーブルの上に置かれていたピンクゴールドの指輪を指先で弄んでいた。
「名前、これからどうするの」
 名前はきょとんと目を丸めて、んー、とかわいらしく小首を傾げる。生前と何一つ変わらぬ仕草に胸の奥が燻るように痛む。
「悟の傍にいるよ」
 彼女の透き通った双眸が細められる。そして名前は五条の傍まで寄ってきて無邪気に腕に絡み付いて笑った。温もりはないはずなのに、どうしたってその温もりの在処をひっそりと探してしまう。
「もうどこにもいくなよ」
 これ以上なにもいらないから。
 声にならない想いをぶつける前に、視界の中で名前が肯いたのがわかった。それだけで、五条は十分だった。