楽しみにしてたなんて言ってあげない
教室に入って席に着いた途端、小湊くんが片手をわたしの目の前に差し出す。無言で差し出された手の意図がつかめなくて、首をかしげる。数秒考えた後、はっと閃いて、おそるおそるその手に自分のてのひらを重ね、彼を見上げた。けれど、彼の反応は冷ややかで「いや、お手じゃないから」と呆れたようにため息をつき、もう一方の手でわたしの脳天にチョップを叩き込んだ。ぎえええ。痛みで思わず奇声があがる。朝から変な声を出してしまったではないか。周りの視線も心なし痛い気がする。…なんというか、理不尽が過ぎやしませんか、小湊くん。「朝から暴力とか、なんで?!」
理由がわからなくて半泣き状態のままぷりぷりと怒っても、小湊くんはどこ吹く風といった様子で口をかたく閉ざし、わたしをじっと見ている。今日の小湊くんはよくわからない。
「チョコ」
やっと口を開いたかと思えば、チョコ、と単語だけが飛び出し、わたしは「へ?」と首を傾げる。たしかに今日はバレンタインデーだ。小湊くんに渡すチョコはきれいにラッピングして、鞄の中に入っている。けれど、もっと渡すタイミングとか、ムードとか、そういうのをいろいろ考えていたから、まさか朝一に会った瞬間に彼がチョコレートをご所望になられるとは思わなかったのだ。どうやらわたしの想像不足のせいらしい。
「まだわかんない? バレンタインのチョコ」
「わかる! わかるよ! けどさ、渡すタイミングとか、そういう雰囲気? みたいなの大事じゃん!」
そう言い切ると、小湊くんは「ふーん」と目だけを胡乱げに細めた。あれ? わたしなんかおかしなこと言ったっけ。小湊くんの言ってることがまるで理解できていないわたしの様子を見て、彼は呆れたようにもう一度わざとらしくため息を吐いた。
「一昨年、去年と、作ってきてたのに最後の最後まで渡さなかったのはどこの誰だっけ?」
「あ……。えっと…」
そうだった。去年は彼が部活に行く直前になんとか手渡して、一昨年に至っては用意をしていたけれども渡せずにバレンタインデーを終えてしまったのだ。
野球部でレギュラーの彼は、女の子たちにとても人気だ。そんな彼が、誰が見てもかわいくてきらきらした女の子たちからチョコレートを手渡されているのを目にしてしまい、わたしは怯んでしまったのだ。こんな平々凡々なわたしからもらっても嬉しくないだろうと思って、全ての授業が終わっても渡せずにいた。部活に行く頃になって、小湊くんから「チョコ、待ってたんだけど苗字からはないんだね」とぽつりと言われて、慌てて鞄から取り出し、「ありますです!」と支離滅裂な日本語を言いながら渡したのが去年の話。
「毎年とてつもなく無駄で無意味な遠慮するから。だから、今年は朝から貰おうと思って」
わたしが言葉を挟む余地など与えず、彼は矢継ぎ早に言葉を重ねていく。
「で、チョコ。今年もあるんでしょ? さっさと渡しなよ」
「……渡したくなくなってきたんだけど」
あまりにも横柄な態度に口を噤むと、彼はふーんと首を傾げにっこりと微笑んだ。あ。なんか、とても嫌な予感しかしない。
「へえ……。くれないんだ? 彼女なのに? 苗字が来るまでにどれほどのチョコを他の女の子に渡されても断って苗字のところに直接来たのに、そういうこと言うんだ」
不穏なオーラが漂う笑顔とチョップを叩きこもうとする手が振り上げられ、これはまずいと悟り慌てて鞄の中を探る。やっぱり本能的に彼には逆らえないのである。今まで何度か口喧嘩をしたことがあるが、大体論破されるか無理矢理な理由をこじつけられてわたしが負けるので、無駄な抵抗はしないに越したことはない。
「ある! あるから! あります! はい、これ!」
ラッピングした箱を彼の目の前へ差し出すと、そっと受け取ってくれた。
わたしはあまり料理が得意ではない。なので、料理が得意な友達にバレンタインのチョコレートについて相談をしたら、一緒に作ろうということになり、その友達監修のもとで作ったから、今年のチョコは去年に比べると傑作のはずだ。味見をしたらとっても美味しかったから間違いない。実はそのときにたくさん食べてしまって、新たに材料を買って作り足したことは、わたしと友達の間だけの秘密だ。
去年作ったチョコレートブラウニーは生地がパサパサになってしまい、「なんか口の中の水分全部取られる」と苦言を洩らしつつ、彼はなんだかんだで目の前で全部食べてくれた。だから、今年こそはと気合を入れたのだけど、実際に口に合うかはわからない。
小湊くんは去年と同じように、ラッピング包装されたものを丁寧に解き、目の前で一口サイズのチョコトリュフを口に入れた。もぐもぐと咀嚼してる間、わたしの心臓は忙しなく動く。やっぱり、好きな人には喜んでもらいたい。
「へえ、美味しいじゃん」
意外そうに目を丸めた彼は、もう一つ、とチョコの包みに手を伸ばす。
はじめて、彼に褒められた。
いつの日か、おにぎりの差し入れをしたことがあった。そのときは握り過ぎて固いと後々苦言を呈された。せっかく作ったのに、と思わないでもなかったが、美味しくないのに美味しいと言われるよりも、正直に言ってくれる方がわたしは嬉しかった。それに、色々と文句を垂れつつも、なんだかんだで全て腹のなかにおさめるのだ。
そんな彼だから、わたしは好きなのだ。
「苗字がフリーズしてんじゃねえか」
すべてのやり取りを近くで聞いていたらしい伊佐敷くんが「おーい、生きてるか?」と目の前を確かめるようにひらひらと手を振った。なんとか、生きている。が、それに応える余裕はない。顔がとてもあつい。恥ずかしくなって思わず両手で顔を覆う。
「おい、亮介。普段からもっと褒めてやれよ。こういうことになんのわかってただろーが」
「まあね、わざとだし」
「あと朝っぱらから胸焼け起こすようなことすんな」
「少女漫画で見慣れてるくせによく言うよ」
そんなやり取りをしているなんてちっとも知らずに、頭の中では彼の美味しいじゃんというセリフを何度も繰り返しつつ、赤くなった顔をどうしようかとてのひらで覆った暗闇の中でひたすら考えていた。