ディアマイヒーロー
スープ、前菜、オードブルなど次々と運ばれてくる高級な料理を胃の中に収めた灼は欠伸ばかりをしている。それは仕事の都合上仕方のないことだと理解しているのだけど、付き合って七年の記念日なのにこれはあんまりじゃないだろうか。もう何度目かわからないふわあ、というお間抜けな声に思わず眉をひそめた。
厚生省に勤めて街の治安を守っているという理由だけではなく、とある事件が原因で近頃あまりよく眠れていないことも知っている。けれども、せっかくの休日で二人きりなのだから、少しくらいムードとか気にしてくれてもいいんじゃないのだろうか。
明らかに気を悪くしたわたしの様子に気づいた灼はごめんごめんと両手を合わせ、お得意の上目遣いで謝るけれども、声には反省の色は少しも見られなかった。
それでも「別にいいよ」などと自然と笑みが洩れてしまうのは、忙しいのにもかかわらず、記念日だからというたったそれだけの理由で、忙しい仕事の間を縫いわたしのために会いに来てくれたからだ。目の前に五体満足の灼がいる。それだけで、幸せに思う自分がいるのも確かだった。仕方ないなあと肩を竦めると、彼はよかったと安堵の息をついた。
目の前に運ばれてきた大きなお皿にちょこんとのせられているパスタをフォークに巻きつけて頬張る。あまりの美味しさに「幸せの味がする」と溜息とも吐息ともつかぬ声が洩れ出た。彼は「炯に教えてもらった店に外れはないよ」とまるで自分の手柄のように誇らしく語って、マナーなど知ったことかとばかりに勢いよく食べていく。
そんな彼の顔をそっと見つめる。目元には隠すこともできない隈を蓄え、顎から頸にかけて少し骨が浮き出ているように見える。仕事で忙しいと食事が極端に疎かになるのは彼の悪癖だ。この前家にお邪魔した時は、室内のそこら中に食べ終えたカップ麺の容器や牛乳パックが散乱していたので、まず最初に掃除をした。別に気にしなくてもいいよと彼はへらりと笑って見せたけれども、わたし自身がゴミだらけの部屋で落ち着かないのだと真剣な表情で訴えれば、わたしと一緒になって彼もゴミを片付け始めた。それが約一ヶ月前の話なのだけれど、この様子では、もう灼の部屋はゴミだらけになっている可能性が高い。そろそろ掃除や洗濯をしに行かねばならない頃合いかもしれない。まるで一人暮らしをしている息子を心配する母親みたいだな、となんだか複雑な気持ちになった。
「灼、ちゃんと食べてるの?」
彼はメインのお肉を頬張りながら首を傾げた。小動物を彷彿とさせるその動きに胸の内に甘いものが湧き上がるが、それに誤魔化されて追及の手を緩めてはいけない。
「それに、眠れてないんでしょ」
「はへへうし、へふえへへふほ」
「灼、喋るか食べるかどっちかにして」
口を閉ざしてもぐもぐと頬を動かしてから再びすぐに口を開こうとする。ほら、飲み込んで、とわたしが促すと、わたしの言葉にこくりと頷いてようやっと喉を上下させた。
「たべれてるし、眠れてるよ」
「……前より痩せてるし、隈酷いじゃん。どーせ牛乳と菓子パンとカップラーメンと水でしょ。ダメだよ。身体が資本の仕事なのに」
あまり口うるさく言いたくないけれど心配なのだ。仕事のためならどれだけ身体に負荷が掛かっても無理を通してやってのけてしまう人だから。けれども灼はわたしの心配を余所に、にっこりと白い歯を覗かせてピースサインを作ってみせる。
「ときどき、仕事帰りに炯の家に寄って舞ちゃんの手料理食べてるからだいじょーぶ」
「そういうことは目元の隈を取ってから言ってよね」
ふんと鼻を鳴らしてから肉にフォークを突きたて、口に運ぶ。唇に滴るデミグラスソースなど気にせず食べていると、ふいに「そっか。いつも心配してくれてるんだよね。名前は本当に優しいなあ。そう言うところ好きだよ」なんてやけに沁々と感心したように言うではないか。なんだか照れ臭くなって、聞こえない振りをしてがつがつと肉を切り分けて食べ続けた。なんて可愛くないのだろう。素直にどういたしましてと言えればいいものをなかなか言えない。テーブルを挟んだ向こう側からくすくすと笑い声が聞こえてくる。そんなわたしの心中の葛藤なんて全てお見通しなのだろう。
悶々としつつ食事を進めていると突然小さな電子音が真正面から鳴り響いた。あちゃあ、このタイミングで呼び出しか〜と緊急召集だというのに緊張感のかけらもない声が上がる。彼の腕につけられたとてつもなく高性能な腕時計みたいなものから浮き出た映像に何度か頷いて「りょーかい。今から行きます」と返事をした。そしてわたしの機嫌を窺うようにおそるおそる覗き込んだ。本日二度目の上目遣いの灼はわかってはいるけれどもとてもあざとくわたしの目に映る。けれどもそんな彼にわたしがめっぽう弱いことを知ってて行動しているのだからタチが悪い。「人たらしのメンタリストはこれだから困る」とそっぽを向くと、頬に柔らかな感触。いつのまにか傍まで寄ってきていた灼はちゅ、とわざとらしくリップ音を立てて、この仕事早く終わると思うから続きはまた今夜ね、と耳元で囁いた。ああもう。柄にもない約束をして。最後までずるい人。
へらりと目を細めて颯爽と去る彼の背中を目で追って、声には出さず「無理しないでよね」と口の中で転がしたはずなのに、灼は何を思ったのか、そのタイミングでくるりと身を翻して「行ってきます!」と大きく手を振った。わたしもつられて手を振り返した。
取り残されたわたしとテーブルの上にあるたくさんの料理を一人で食べるのはなんだかとても寂しくて虚しい。周りからは機密事項の多い職種の彼との付き合いは大変だろうと心配されたり、別れを勧められたりする。そして今この状況も周りから見たらわたしはとても惨めに見えるかもしれない。けれども、身体を張って常に危険な仕事をしている灼を想像するだけで、わたしも前を向いて頑張ろうと思えるのだから、灼と別れるという選択肢はなかった。
よし、と目の前の豪華な料理に向き直る。どうせお金はすでに支払われているのだろうし、今から運ばれてくる二人分のデザートを遠慮なく頂くとしよう。そして今夜、そのデザートがどれほど美味しかったのか彼に教えてあげるのだ。