昨日のあくびの数を知っている
勉強を教えて欲しい、と真剣な口調で頼まれたから、誰もいない教室にわざわざ残って二つの机をくっつけて勉強していたのだけれど、殆ど訊いてこないし、時々考え込む様子を見せたかと思うとすぐにノートにさらさらとシャーペンを走らせる。私がいる意味なんてちっともありゃしないのだ。壁に掛けられた時計をちらりと見ると、そろそろ五時になるところだった。窓から差し込む光も徐々に暗く弱くなってきている。
「ねえ、私いらなくない?」
静けさに包まれていた教室で、私の声だけが響いた。その声に澄晴はのっそりと顔をもたげて「ん?」と、わざとらしく小首を傾げる。色素の薄いやわらかな髪の毛が斜めに流れる様子は、男のくせにやけにかわいらしく見えた。
「いや、ん? じゃなくてさ。あんたにわざわざ勉強教えることなんてひとつもないじゃん。うちの高校の中ではちょっと落ちこぼれな部類だけど、先生の話聞いてないだけでしょ? だからさ、」
「あ、もしかしておれ、貶されてる?」
へらりと笑って、話頭を転じる彼を軽く睨み付ける。おどけたように、怖いなあなんて肩を竦めて言うけど、その声音からは怖いだなんてちっとも感じられなかった。
「……私と勉強する意味ないよね? そういうことだから、帰るわ」
話を無理矢理終わらせて、広げていたノートと筆記用具一式を鞄へ無造作に突っ込む。じっとその様子を眺める視線を流しつつ「じゃあお先に」と席を立った。けれどその瞬間、手首を強く掴まれた。その力は、振りほどくことを許されない強さだった。これが男女の差というやつか。
「まあまあそう言わずにさ。今ちょうどわかんないとこ見つけたから、教えてよ」
あとから取って付けたように訊いてくる。私に訊かなくたって、ちょっと時間をかけて考えればわかるくせに。けれども訊ねられると断れない私は、納得いかないままに再び席につき、問題を解くヒントを教える。すぐにピンと来たらしい彼は、なるほどねえと感心したように何度か肯いて正しい答えを導き出した。
彼は一つ理解をするとその一つを応用させて五つ先までわかるタイプだ。私は一つ一つ積み重ねてゆっくり理解をしていくタイプだから、小さいときからそんな彼を目にする度に、自分にはないものをまざまざと見せ付けられているようで、じりじりと疼くように心が痛んだ。きっと、彼に対して純粋な羨望の眼差しを向けられればよかったのだけど、ただの醜い劣等感を抱いてしまったのだ。それはなにも勉強に限った話ではない。一緒に同期としてボーダーに入隊したけれども、私はずっとB級の真ん中で留まったまま。その一方で彼は駆け上がるようにランクを上げて一時期はA級で活躍をしていた。個人戦だって、最初の頃は勝ち越したりもしていたが、今では勝ち越せたらそれは奇跡と言っても過言ではないくらいに実力に差がついてしまっていた。
そんな優秀な彼のとなりに並ぶことは、幼馴染としてとても誇らしい気持ちもあるけれども、それと同時に黒くてもやもやとしたよくないものが心の中に蔓延った。そんな自分を自覚しているからこそ、彼から離れるために早く教室から去ろうとしたのだけど、失敗に終わった。仕方がない。大きくため息を吐き出してから、渋々彼の勉強に付き合うことにする。
「ここのさー、ここまではxで微分したらいいけど、このあとどうやったら導き出せるの?」
「あー、そこは二次方程式から因数分解できるでしょ? そこからyの解が導かれて、それをそれぞれxに代入してみて」
「なるほどね〜。前に出した範囲当て嵌まるのが答えなわけだ。やっぱ名前の説明はわかりやすい」
「褒めてもなにもでないよ。てかさ、他の人に頼めばよくない? 私より頭いい人いるじゃん。荒船とか」
ぴたり。彼の手が止まった。どうしたの、まだわからないとこあるのと聞く前に、視線をノートに落としたまま彼は徐に口を開いた。
「それじゃあ意味ないんだって」
いつもよりも強くはっきりとした口調に、なにも言えず口を噤んで黙りこむ。
「こういう理由でも作らないと、最近の名前っておれのこと相手にしてくれないでしょ?」
確かに昔よりも関わりは遥かに減った。それに意識的に避けている自覚もある。けれど、いつまでも幼馴染みが昔と同じようにずっと一緒にいるというのは、成長と共になくなるのが世間一般では普通だろう。その疑問がどうやら顔に出てたらしく、「避けてんじゃん、おれのこと」と続ける。
「名前のこと昔から一途にずっと好きなのに、そんな態度とられたら、さすがのおれでも傷付くし」
「は?」
随分と間の抜けた声が教室に響いた。
今、彼はなんと言った。好き、と言ったのか。私のことが、たしかに好きだと。その好きという感情がどういうものなのか、頭では理解しているはずなのに、いざ自分に向けられてしまうとよくわからなくなってしまう。
「…ウソ、でしょ」
間を十分に置いて、なんとか出した声は微かに震えていた。だって、わたしが彼に対してどうしようもない劣等感に身を焦がしている間、彼は私と全く違った感情を抱いていたことになる。
「これがウソのようでホントの話なんだよなあ」
「だって、…今までそんな素振り見せなかったじゃん」
「そりゃあ、おれがうまいこと隠してたから当たり前でしょ。名前はちっとも意識してくれないどころか、避け始めるし」
まあその理由もわかるけどね。苦笑しながらぽつりと付け足された言葉にふいに心臓が跳ね上がる。私の心の中にあるなにもかもが見透かされていたのだ。醜い劣等感に苛まれている自分さえも。それなのに、好きという感情を私に向けているのか。彼のことを昔からよく知っているはずなのに、今は全く理解ができない。
「…なんで、私?」
おそるおそる聞くと彼は私の顔を覗き込むように見て不敵に笑った。嫌な予感しかしない。
「じゃあ好きなところひとつひとつ挙げてこっか?」
全く状況についていけず動揺してる間に、彼は指折り数えながら事細かに挙げていく。
「本当に知られたくない嘘をつくとき、笑ってごまかそうとするけどうまく笑えてないところが好き。小さいことから何事もこつこつ頑張る姿が好き。大の負けず嫌いだから、負けないようにひたすら努力するところが好き。なんだかんだ言いつつ、おれに甘いところが好き。ご飯食べるとき、たくさん口に詰め込んで美味しそうに食べる顔が好き、あと」
「澄晴、もう、わかったから、」
恥ずかしくなって思わず声を上げるも、まだあるから聞いてよ、と彼は悪戯っぽく微笑んで続ける。
「照れたとき一瞬目をそらすところが好き、驚いたとき口が無防備に開くのが好き、悔しいことや悲しいことがあったとき誰にも言わずひとりで抱え込んで悩んじゃうところが好き、悩んでる人や落ち込んでる人がいると黙ってなにも言わず寄り添って傍にいるところが好き、あとは」
「もういいってば! ストップ、ストップ!」
両手を伸ばして彼の口を塞ぐ。これ以上聞いてしまうと恥ずかしくて死にそうだ。クセなんて自分ですら気づいてないものばかり。
「残念。まだまだ、っていうか、無限にあるんだけど」
口を塞いだにもかかわらずそのまま話し出したから「わっ」と驚いて思わず両腕を引っ込めた。そんな私を見て彼は喉の奥でくつくつと心底おかしそうに笑った。
私は彼を今まで恋愛対象として見たことがあっただろうか。いつも彼の周りに渦巻く恋愛関係から一歩引いたところで見ていた気がする。
小さい頃から知っている、女の子の扱いに馴れた、少し意地の悪い男の子。怖いもの知らずで、常に私の前を悠然と行ってしまう。追いつこうにも追いつかず、一人地団駄を踏み鳴らし、遠くからぼんやりと彼を眺めていた。今はどうだろう。性格は全く変わってない。顔の造形も他の人と比べると昔と変わらず綺麗で整っている。けど、同じくらいの背丈だったのにいつの間にか抜かされていた。シャーペンを握る手が私よりずっと大きくなった。声が低く甘くなった。からかい混じりの子供っぽさが滲んだ目元は、鋭さが増した。過去の彼とは、少しずつだけれどもやっぱり違う。
ゆっくりと澄晴の手がわたしの頬に添えられる。触れているところが熱くて、少し擽ったい。その指先が、震えているのがわかった。
澄晴でも、緊張するんだ。
ちょっと安心して、ふっと声が洩れた。その瞬間、彼は目を細め、口もとを歪ませた。
「なんで笑ってんの」
「だって、澄晴緊張してるんだもん」
「そりゃあ、一世一代の告白ですから」
おどけたように肩を竦め、ひー、ふー、みー、と指折り数え、十四年の片想いだ、と自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも澄晴さ、過去に彼女何人もいたよね?」
中学、高校、と短いスパンで変わっていた気がする。そのたびに、この幼馴染がどんどん知らない人になっていくようでなんだか怖かった。
私の問いに彼はバツが悪そうに顔を顰め、それには理由があってさと続けた。
「告白されてそのまま付き合って名前のこと忘れられるかなと思ったけど、結果無理だった」
「何それ。澄晴に付き合ってきた歴代の彼女さんたちがほんとに可哀想になってきた。同情する」
「まあでもその彼女たちのおかげでこうやって名前に対して真摯に向き合えてる今があるから、おれとしては結果オーライって感じかな。随分遠回りしちゃったけど」
あっけらかんと笑って告げる彼にわたしはかけるべき言葉を失う。
「名前がおれのこと恋愛対象として見てないのは知ってる。でも、これからせいぜい頑張るからさ、見守っといてよ。返事はそれからでいいから」
強気なんだか、弱気なんだか、よくわからないけれど、そう言った澄晴に対して嫌な気は全くしなくて、今まで積もっていた嫉妬や劣等感なんてものはとうに消え失せていた。
「わかった」
応えると、彼は目を細め満足そうに肯いた。
久々に二人並んで帰った。いつも先を行ってた彼が、私の歩幅に合わせてとなりを歩く。今まで話さなかった空白を埋め合わせるように、お互いに話した。
彼に対して好きという感情が芽生えるかどうかまだわからないけれど、こうやって横に並んで歩くのは悪くないなと考え始めていた。
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