そのままでいてよ
どれにしよっか、と犬飼くんはメニュー表を広げた。ずらっと並んだたくさんのドリンクの名前に、目がチカチカする。友人から新作のドリンクがすごく美味しくてオススメだと話には聞いていたが、流行りに疎いわたしはこういうお店に来たことがなかったのでさっぱりわからない。そもそもどれが新作なのかもよくわからない。決まらないまま、列がどんどん進んでいく。うーん、と唸りながら真剣に悩んでるわたしの様子を見て、横から忍び笑う声が聞こえる。文句を一つ言おうと口を開くも、「こんにちは、メニューをお伺いします」と店員さんに促されてしまい、そのままレジの前へと進んだ。「ミディアムサイズ、ホットのドリップコーヒーで」
コーヒー二種類ご用意しておりますがどちらにいたしますか? と続けて聞く店員さんに対して、彼はケニアでお願いします、とスマートに注文を済ませてしまう。彼は意外とコーヒーに詳しいらしい。「苗字さんはどうする?」そう言われてはっと我に返り、慌ててメニュー表に目を落とす。早く決めなければと焦れば焦るほど、メニュー表の文字が認識されずに表面を滑っていく。おろおろしているわたしを察して、店員さんは「ゆっくり決めてくださって結構ですよ」と優しく微笑むが、後ろをちらりと振り返るとたくさんの人が並んで待っていた。
悠長に決めている場合ではない。再びメニューを見る。お腹が普通の人よりちょっぴり弱いわたしはこの冷たそうなフラッペみたいなのは飲めそうにないし、だからといってどれが美味しいのか、どれが自分の好きな味のドリンクなのかすらわからないから、「じゃあ犬飼くんと一緒のやつ」と優柔不断の人がよく使う常套句を言う。
案の定、彼は眉をひそめ「えー?」と首をもたげた。
「苗字さんコーヒー飲めないじゃん」
「……いまなら飲めるかもしれない」
「やめといた方がいいと思うけど?」
「の、飲めるもん!」
思わずむきになって噛みつくように言う。目の前にいる店員さんは、わたしたちのやりとりを微笑ましく見守っている。なかなか決められない上にコーヒーが飲めないということが、いかにも子供染みていると気付き、恥ずかしくなって身を縮こませる。
「苦いのダメなくせに。じっくり考えなよ」
「でも……」
「じゃあ、もうおれが決めちゃうよ?」
彼はわたしの手元のメニュー表に目を落とした。「ホントにいーの?」と再び確認する声に、「うん、お願い」力なく肯く。いつも優柔不断で決められないわたしは彼に決めてもらってばっかりだ。こんなことも自分で決められないなんて情けない。
「じゃあもう一つはミディアムサイズでシロップをホワイトモカに変更で少なめにしてもらって、全部ミルクで作ったイングリッシュロイヤルティーでお願いします」
彼はすらすらと長い注文をする。唯一きちんと聞き取れたのはミルクティーというところだけ。こんな長い注文に、店員さんはひとつ頷いてレジ画面をタップしていった。もうなんだか未知のやりとりだ。どちらもすごい。呆気に取られている間に、彼は二人分の会計を済ませていた。慌てて鞄から財布を取り出そうとすると、その手を制される。
「今日はおれの驕りで」
でも、と渋ったけれど、「ここで彼女に払わせるほど甲斐性がない男って思われたくないんだけど」そう言われてしまっては黙って財布を仕舞うしかない。お会計を済ませ、ドリップコーヒーだけレジで受け取り、バーカウンターの前でわたしのドリンクが出来上がるのを待つ。
その間、いつもと変わらずなかなか決められなかったことに落ち込み、自然と視線が足下に落ちる。視界に入る爪先のまるいぺったんこなシューズが幼さをより強調させているように感じ、ますます気が滅入ってくる。暫く黙り込んでいると「おれさ、」と彼が徐に口を開いた。
「苗字さんが一生懸命に悩む姿、すごく好きなんだよね」
その言葉に弾かれるように顔を上げる。彼はへらりと笑って続けた。
「おれなんかは物事をなんでも直感でパッと決めちゃうけれど、苗字さんは慎重で思慮深いんだよ。だから苗字さんが身に付けているものとか、おれにくれるものとかも凄く考えて選んだものなんだなってわかるし、大切にしようって思える」
ああ、そうだ。彼はいつも長いこと悩むわたしを静かに待ってくれていた。家族からも友人からもいつもせっつかれて、お前はどうしてこんなことで悩むんだと呆れられて日々を過ごしていたけれど、彼は違った。
「だから、気にしなくて良いから。そのままでいてよ」
今まで悩んでいた自分の欠点が、彼の言葉によって大きく覆されていく。変わろうと思わなくていいんだ。そのままでいいんだ。そう思うと、いつも早く決めなきゃと思い込み、ずっとどこか緊張していた心がふっとゆるんだ。それからお腹の奥底から熱がじわりと灯って、鼻の奥が嬉しさでつんと痛くなる。時間をかけてゆっくりと頷くと、犬飼くんは満足そうに微笑んだ。
そのあとすぐにわたしのドリンク番号が呼ばれる。バーカウンターでそのドリンクを受け取り、一口飲むと、紅茶の特有の香りと渋み、それに伴ってミルクとシロップの甘みが舌の上にじんわりと広がった。それはわたし好みの味だった。もう一口、小さい飲み口から啜るようにして飲む。あたたかくて甘くて美味しい。身も心もゆっくりと満たされてゆく。思わず「美味しい」と呟くと「でしょ?」と彼は得意げに笑みを浮かべ、香りを楽しんでからコーヒーを飲んだ。
彼が飲んでいるのを見ると、コーヒーが本当に美味しいものに見えてくる。一口飲んでみたい、と試しに彼の頼んだコーヒーを口に含んでみたけれども、想像していたよりも遥かに苦かった。舌の上にすっぱいのか苦いのかよくわからないものがざらりと残る。思わず顔をしかめれば、想像通りの反応だ、とくったくなく笑う。その笑顔を見たら、わたしはこのままでいいんだ、なんて改めて思ってしまう。
彼がこのように常日頃わたしを甘やかすから、いつまでたっても優柔不断のままであり、コーヒーに憧れながらも、甘い甘いミルクティーを飲み続ける。