空気みてえなもん
しゅわしゅわ、じんわじんわ、蝉が残り少ない命をすり減らしながら鳴いている。
あれはどうして鳴るのだっけか。羽を擦りあわせて、からだのどっか空洞の器官らしきところに共鳴させるようにして鳴らしてるんだっけ。
そのまま斜め前の背中に問えば、「大体あってる」と頭の後ろに手を組んで、 わたしたちもこの街も全て呑み込んでしまいそうなほど大きい入道雲を眺めながら、ゆったりと云った。
「付け足すと、発音膜っていう鳴き声を出す器官を発音筋で震わせて音を出して、内部の共鳴室で音を大きくしてんだ」
「おお、詳しいね」
「ファーブル先生から学んだ」
「ファーブル昆虫記? そんなの読んでるのみたことないけど」
「大体の男は通る道なんだよ」
「嘘だあ」
「ホントーだって」
ホントなようなウソのようなどっちでもいい会話を交わしながら、わたしたちは燦々と照りつける太陽の下を歩いていた。出水くんはあちい、と小さく呻いてシャツの胸元をつまみあげる。わたしも彼に倣って胸元にぺったりと張り付いている衣服をつまんでパタパタとさせた。生ぬるい風が僅かに入り込んだ。やらないよりは少し涼しく感じて、繰り返し胸元に風を送っていたのだけど、その行為を制する手があった。彼の手もわたしの手もじんわりと汗が滲んでいた。
「それ、やめとけ」
「なんで」
咎められる理由がわからなくて唇を尖らせると、彼は呆れたように息を吐き出した。
「ブラがみえる」
ああなんだ、そんなこと。小さく肩を竦めれば、「おれはお前の貧相な胸元みても興奮しねーけど、他の男はわからねーからな」どうでも良さそうな口調の中に小さなトゲが含まれている気がした。それに対してわたしは「ふうん」と生ぬるい相槌をうって、彼の忠告になんとなしに従って手を止めた。
他の男には見られたくないの?
なんてバカなことを訊こうとしたのだけどやめておいた。彼のうっすらと細められた瞳の奥の真意は知らないふりをしておく。
わたしの斜め前を歩いていた彼は、いつの間にやら隣に並んでいて、その時になって隣に立つと彼の背が思っているよりも高いことに気づいた。わたしは、空を見上げる彼の横顔と首筋を目でそっと追った。むき出しの首筋には汗が玉になって浮いていた。
「さっきの続きだけどさ、」
彼は言葉を続けた。
「セミってオスしか鳴かねーの」
「なんで?」
「メスを呼び寄せるためだけに鳴いてんの」
「長いこと地面に埋まってて、七日間やることがそんだけなんだ」
そんだけって思うんじゃなくてさ、と出水くんは宙をそっと見上げた。その瞳には風に流れてどうどうと動く入道雲が映されている。
「愛を叫ぶために生まれてきてるって考えたらなんかロマンチックじゃねえ?」
出水くんは静かにそう言って、口だけで笑った。わたしは出水くんの言葉を頭の中でもう一度なぞった。それからセミの鳴き声に耳を澄ませてみると、本当に愛を叫んでるように聞こえた。隣をうかがい見ると、彼はまぶたを閉じていた。きっと、彼も耳を澄ませてセミの鳴き声を聞いている。
「セミにとって夏の存在って愛なんじゃねーかな」
愛、という言葉だけがわたしの心の中に生々しく浮かび上がってすぐ消える。今まで何度も彼に対して想ってきた言葉が、ちかちかと点滅した。それは太陽のようでもあり、彼そのもののようでもあった。
「じゃあさ、出水くんにとって、わたしってどんな存在なの」
わたしの突拍子もない質問に彼は僅かに息を呑み込んだ。いつもの飄々とした空気が凍ついた。でもそれはほんの一瞬で、すぐにいつもの調子で言った。
「空気みてえなもん」
「空気?」
「そ、空気」
「二酸化炭素と窒素と酸素とその他のガスってこと?」
そうじゃなくて! 声を荒げて、出水くんは立ち止まった。わたしも自ずと止まって振り返った。彼が言いたいことはわかっているのに、わたしはうん、と肯いて彼の言葉をじっと待つ。彼の口から、直接、聞きたいのだ。
しゅわしゅわ、じんわじんわ、
蝉の鳴き声が一際大きくなった。出水くんは一度大きく息を吸って青空に言葉を溶かした。
「いねえと死んじゃうってこと!」
わたしを置いて先を歩いていく。抜かす瞬間にちらりと見えた亜麻色の髪の毛からひょっこりと出ている耳は真っ赤だ。陽光に透かされた薄い耳から脈々とした血管が見えた。彼の言葉が、ゆっくりと時間をかけて身体の深い場所へ落ちた。
「出水くん」
どんどん離れていってしまう背中を、底抜けに大きな声で呼び止める。蝉の鳴き声に負けないように、照りつける太陽の熱に負けないように。額とか背中とか鼻の上に丸い雫を浮かばせながら、なりふり構わず、もう一度彼の名を呼んだ。すると、ばつが悪そうに振り向いた顔は、遠くから見てもまっかっか。さっきの耳と同じくらいにはまっかで、つられてこっちまであかくなりそう。耳の下あたりがどくどくと脈打った。
「わたしも、」
大きく息を吸い込んで、胸の中にずっとあった言葉を吐き出した。
「出水くんがいないと生きてけないよ」
彼は大きく目を見開いて、そのまま固まった。少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「そーかい」
しゅわしゅわ、じんわじんわ、セミが鳴く。
前髪からきらりとひかる雫が落ちる。
太陽が眩しい。
ひかるように浮かぶ汗が眩しい。
生温い風に吹かれる白いTシャツの裾が眩しい。
出水くんが、眩しい。