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高貴に映る神器を売り払え

 苗字の自棄酒に付き合わされている迅は、片肘をついて手を顎に添えてから大仰に嘆息した。真横にはもう既に出来上がっている状態の苗字がすっかりと腰を落ちつけており、目は酔って赤く濁っていた。その様子に目を細めて、テーブルの上へと視線をやれば空いた瓶とジョッキが幾つも屹立している。そして苗字が口を開く度に酒の臭いがむわりと漂い、迅は内心で顔を顰めた。
「ホント、やってらんない」
 ぐてっとカウンターテーブルにしなだれる苗字はいつもの溌剌とした様子は見受けられない。呂律の回っていない苗字の話を自分なりに無理矢理繋いで解釈すると、一年付き合っていた男性がいたらしいが、ボーダーに所属しているということがわかった瞬間に別れを切り出されたらしい。
 ちなみに何故迅と苗字が呑みに行くことになったのかというと、今日、市街地見回りの帰り道でばったりと苗字に出くわし、その際、酔っ払って道端に倒れているなんとも見たくもない苗字の未来が見えてしまい、それを防ぐべく付き合う羽目になってしまったのだ。朝には見えてなかったのにどうしてこうなってしまったのだろうと思うけれども、自分のサイドエフェクトは万能ではないと証明されることにもなった。
「呑み過ぎじゃない?」
 苗字の手からスルリとお猪口を取り上げる。同い年だけれども、ほんの少し先に成人した苗字はお酒に対して遠慮が全くといっていいほどなくなっていた。
「ちょっと、今日はいっぱい飲むって決めたんだから、取り上げないでよ」
 瓶をもうひとつ頼んで、すぐに運ばれてきたものをラッパ呑みしようとするもんだから、迅は慌ててお猪口を返した。最初からそうすればいいの、なんて苗字は満足そうに笑った。
「ボーダー所属なんて命の保証なんてないだろって啖呵切っていわれてもねえー」
 猪口を口まで運び、ぐっと酒を呷る。濡れている下唇を舌で舐めたあと、へっへっ、と親父くさく笑い、徳利から猪口へ危なっかしい手付きでとくとくと音をたてながら注ぐ。注がれた透明の液体は猪口の内側にひっそりと描かれている蛇目を綺麗に透かした。そして再び口に運ぶ。
「そんなの、ボーダーじゃなくたって明日の命の保証なんかないと思わない?」
 迅は静かに耳を傾けた。この隣の酔っ払いが述べていることは実に正しく、正論であった。
 本当は皆いつ死んだっておかしくないのだ。唐突に交通事故に巻き込まれるかもしれないし、もしくは近界民が突然現れて命を落とすかもしれない。
 例えば、無差別連続殺人事件があったとする。すると、大凡の世間一般の人は気を付けなければと周りを見渡し、足早に歩くだろう。そのときどこかで必ず家に帰れる、と思うのは当たり前の感覚なのだ。絶対に、自分が殺されるんじゃないかという危機を持っている人なんていないのだ。逆に一人びくびくしていても、浮いて怪しまれるのがオチなのだが。
「けどさあ、そこらへんの感覚って妙にわたしたちとはズレてるなぁって思うの」
「当たり前でしょ、身を収めている環境が違いすぎる。それにやっぱり死ぬ確率は圧倒的におれらが高いのは否めないしね」
 迅は目を伏せて、浩然と述べた。それを聞いて苗字は「それもそうだね」と萎れて返した。苗字はお猪口についた赤い口紅の跡を長くて細い人差し指でゆるりと撫でる。暗い照明に照らされたほんのりと赤く残っている唇が艶かしく映った。まるで目の前にいるのがいつも知っている苗字ではないみたいに思えたのだ。迅は苗字の唇から目を逸らす。そして妙に居心地が悪くなった気がして、手持ち無沙汰に苗字が呑んでいる酒を呑んだ。口当たりは爽やかだが、少し辛い。喉につきりと沁みて顔が自然と歪む。その瞬間、苗字がじっとお猪口を見つめながらぽつりぽつりと独り言のように呟いた。 
「本当に好きだったの。でもしょうがないよね、こればっかりは」
 ボーダーやめるなんて考えられないから、と憂いと寂しさを孕んだ声音で続けた。笑うのと泣くの、等分に入り混じった情けない顔を迅に向けて、ふっと顔を綻ばせる。苗字とは付き合いが長いけれども、迅はそのような表情をはじめて目にした。迅はただそんな苗字を見つめることしかでない。
 ふと思い出したかのように、苗字はポケットからシンプルで上品なシルバーの環を取り出した。苗字は暫く、それを掌の中で弄んでいたが、ふいに指の隙間から環がするりと抜けて、カウンターテーブル上に綺麗な弧を描き、迅の爪先にこつりと軽く触れた。環の動きが止まる。
 迅は緩慢な動きで、その環を人差し指と親指でそっと持ち上げて目の前に翳した。光沢が眩しい。その綺麗な環を見たまま「なあ、」と切り出した。
「これ、質屋に持っていってお金にしよう」
 迅の明るい声に、苗字は双眸を見張ってふるりと睫毛を震わせた。迅はそれに気付いて笑った。
「それでまた、仕切り直しっていうプランはどう?」
 その誘いはとても甘美的で、苗字は躊躇うことなく「それ乗った」赤い顔をして笑った。
 まだ夜の十時を過ぎてはいない。神様と誓うはずだった環を売り払って、とことん今日という日は、美酒に酔いしれることにする。