ひなたのせかいにいきる人
こんなきらびやかな世界にどうやって立ったら良いのかわからない。日常からひとっ飛びしてやってきたきらきらとした世界にくらりと目眩を覚える。一歩一歩と足を前に進める度に、ふわふわと浮いている気がして、この世界は重力がないのではないか、なんて思ってとなりの足元をみても、周りのたくさんの人たちの足元をみても、つま先とかかとはきちんと地面についており、しっかりとした足取りで歩いているではないか。だからわたしが思った"ここには重力がないのではないか説"は見事に打ち消されるのだけれど、この世界全体に流れてる音楽が、踊ってしまいたくなるような、スキップしてしまいたくなるようなものだから、そう思ってしまうのも無理はないと思うのだ。
「天国がこんなとこだったらいいのにねえ」
口元をおおっているマフラーの編み目の隙間から出ていく息が白く立ちのぼった。
「それ賛成」
否定されると思っていた唐突な言葉はあっさりと肯定されて、驚いたわたしは足元を見ていた視線を彼に向けた。それと同時に宙ぶらりんだった左手が彼の右手に絡めとられて繋がる。彼の右手はひやりと冷たかった。
「鳴の手、冷たいね」
彼はマフラーに顔を埋めながら、うん、と肯く。そして少し後ろを歩くわたしをちらと見て、「冷たいんだからさ、名前があたためてよね」と頬を上気させて云った。寒いから赤いのか、自分が発した言葉に照れているから赤いのか、理由はわからないけれども、真っ白な肌にぼんやりと浮かんだ赤はとても綺麗だった。
斜め前の彼はここに訪れたことが幾度もあるようで、勝手知ったる場所とでもいうようにわたしの手を引いてずんずん歩いていく。彼曰く、ファストパスというものを取らなければ乗り物一つ乗るのに二時間以上待たなければならないのだそうだ。本当なのだろうか、とアトラクションの入り口らしいところに目を向けると確かに170分待ちと記されてあった。それでも人は更なる列を作ろうと、その一番後ろの列にまた並ぶ、どんどん並ぶ。ここの世界では重力だけではなく、時間という概念さえもねじ曲がってしまうらしい。
「すごい人、」
思わず漏れ出た声を掬いとった彼は、何を当たり前のことをと云いたげな表情を浮かべた。
「こんなもんでしょ」
「そうなんだ」
きょろきょろと周りをずっと見回していると田舎くさっと鼻先で軽く笑われたのだけど、いやらしさは少しも含まれていなかった。
すごい、と感嘆の息を洩らしつつ、わたしにとって何もかもが新鮮で、様々なところに目移りしてしまう。その目に飛び込んでくる情報が、頭の中で溢れかえって大変なことになっている。あれは何だ、これは何だ、と鳴に聞きたいことはいっぱいあるのだけど、見るだけで精一杯だ。
「ま、名前は初めてだからしょうがないか」
「うん、しょうがない」
彼の言葉をそのまま繰り返すと、それ威張ることじゃないからね、とため息と共に吐き出してすたすた歩く。どこに向かっているかさっぱりわからないわたしは、鳴の手に引かれるがままだ。
歩いている最中、女子大生が鳴に気付いて小さな叫び声を上げたが、彼は人差し指を唇に宛がってシーッとポーズをとっただけで彼女たちは互いに顔を見合わせて静かになった。楽しんでください! 弾けるような笑顔でそう云って、頭をぺこりと下げた彼女たちは、うきうきとした足取りで別の場所へと繰り出した。礼儀正しい子達だ。
「そういえば、鳴は有名人だったね」
「何、今更気付いたの?」
「うん。ときどきね、わからなくなるんだよ。となりにいることが当たり前すぎて」
そう云って曖昧に笑うと、鳴は薄い唇をゆるりと吊り上げてわたしの頭を混ぜる。
「お前はそれでいーの」
この世界にすっかり溶け込んでしまっているようにみえる鳴は、わたしにとってやっぱりいつもの鳴だった。
ボーッとしてたらはぐれるからと、彼はわたしの手をもう一度しっかりと掴みなおす。ぎゅっと握る大きな手はすっかりあたたかくなっていた。
彼はふと立ち止まって、初心者はまずここ、と云って比較的短い列に並ぶ。パステル調のピンクとか黄色とかオレンジとか水色とかの色に塗装された建物は、いかにも子供が喜びそうな賑やかな建物だ。並んでる年齢層をみても家族連れが多かった。
「みんな頭になにかつけてるね」
並んでいる人を見ていると、キャラクターの耳やら帽子やらを身に付けている人が半分くらいの割合でいた。この世界だから、身に付けることができるものなのだろう。
「名前もつけたい?」
にやにやと意味深な笑みを浮かべる彼に、嫌な予感しかしなくて首を思いきっり横に振る。すると、名前首もげそう、と彼は腹を抱えてけらけらと笑った。わたし自身もなんだかおかしく思えてきて、彼の笑いにつられるように笑みが零れた。普段、あまり表情を動かさないわたしはひさびさに笑ったから、すぐに頬が痛くなって、頬を指でむにむにとマッサージする。その様子を見てた鳴がもっと笑えばいいのにとぽつりと洩らして、わたしの頬の肉を摘まんでむにっと横に伸ばす。いひゃい、と抗議の声をあげるわたしを無視して、名前太った? なんて意地悪く問うた。むっとして下から睨めつけてみるけれど、伸ばされた顔で睨み付けたところで、ますます笑われるに違いない。実際、わたしはまた笑われてしまうのだった。
そんなこんなしていると、いつのまにか乗り物に乗る番が回ってきていた。一列四人掛けのものなのにクルーさんは気をきかせてか、そちらの席へお二人でどうぞと案内される。その言葉に甘えてわたしたちはゆったりと座った。船の形状をしたその乗り物は、きらびやかな電飾と多くの人形たちに迎えられ、水面の上をゆっくりと進んでいく。
きらきらとした世界はずっと続く。船のヘリから何となく水面を覗き込むと、きらきらとした電飾の光が揺らめいていた。身を乗り出して、そのまま手をのばしてその光を掬い取りたいとふいに思ったのだけど、身を少し乗り出した瞬間に「何してんの」と肩を抱き寄せられる。思わず距離が近くなった彼の顔をそっと見ると、水面でみた光と同じように彼の顔はいくつもの電飾で照らされてきらきらと耀いて見えた。
ゆっくりと前へ進んでいく船に揺られながら、わたしたちは精巧に作られた様々な人形たちを見る。彼らも、となりの鳴も、この世界も、耀いていた。わたしがいつも過ごしている生活からはどれもこれもかけ離れているものだった。
「日陰のわたしには眩しすぎるよ、この場所は」
呟いた言葉は、小さい頃慣れ親しんだ音楽の中に混ざる。
「俺といるから名前も日向じゃん」
さらりと放たれた言葉にわたしは思わず目を見開く。
そうか、彼のとなりも光の当たる日向だったのだ。
常日頃、暗い殺風景な仕事部屋で、悶々と頭の中に浮かんだ感情や情景を言葉の羅列としてペン先から紙へ落とし込むような作業をしているからか、そんな考えはこれっぽっちも浮かばなかったのだ。ちかちかと脳内を点滅させるような新しい発見に、ずっと前から喉の奥につっかえていた小骨のようなものがあたたかな熱となってじわりと溶け出した。
「そうだね」
繋がれた指先を見てそっと忍び笑うと彼は得意気に云った。
「たまにはこういうのもいいでしょ」
唇の隙間から白い歯を見せてにかりと笑う。わたしはただただその笑顔に魅せられてこくりと肯いた。
彼と一緒にきらきらとしたひなたの世界を、ゆっくりと進んでいく。