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「#幼馴染」のBL小説を読む
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アントシアニンの涙

 湿り気と熱気の両方を孕んだ雨が細かく途切れながら降っている。全身にまとわりついて離れないような陰気な雨は、ひどくわたしの心を重くさせた。わたしは斜め上にもうもうと広がっている黒くて低い雲を睨みつけながら、肩に担いだゴミを捨てるべく外へ出た。わざわざ傘をさすのは億劫でそのまま外へ出たのだが、思ったよりも雨脚が強く、ぬかるんだ地面を一歩踏み出す度にビチャビチャと泥が跳ねて、白い靴下に茶色の点がつく。普段なら仕方ないなとため息をひとつ落とせば終わることなのに、今日はその様子がやけに目につき、そのことがとても煩わしく感じられて、自ずと眉を寄せた。短く息を吐き出してから、大きなゴミ袋をゴミ捨て場に放り込む。どさりと音を立てて落ちたそれはなんだか寂しげだ。
「あ、名前じゃん」
 雨の中、白いユニフォームを着てまっすぐに立つ彼は、灰色の世界の中で白くぼんやりと光って見えた。思わずその白さに、目を細めた。雨の中のランニングを終えたばかりだからか、肩がせわしなく上下に揺れている。
「さっさと戻りなよ、こんなところで油売ってないでさ。体冷えるよ」
「いーよ、ちょっと名前と喋りたい気分だった」
「彼女がいるのに何云ってんだか」
「彼女と幼馴染みの名前は別でしょ」
 鳴が何気なく落とした言葉に思わず息を詰めた。別ってどういう意味、と口から飛び出そうになる言葉を喉元へと押しやって唾と一緒にごくりと呑み込んだ。その幼馴染というポジションを何度も捨ててやろうと思ったのに、そんなことを云われてしまうと捨てられないではないか。特別の"別"、と勝手に解釈してもいいのだろうか。
 互いに雨の中、黙ったまま横に並んで、雨の音を聞く。いつも熱い光の中に立っている彼が、雨の中に佇んでいるのはなんだか不釣り合いな気がした。
「鳴ってほんと、似合わないよね」
 彼から目を逸らして小さく云った。わたしの声は雨の音に遮られて聞こえないだろうと思っていたのだけれど、彼の耳はきちんと拾い上げていた。
「何が」
 短く問うた声は少し不機嫌な色が含まれていて、わたしは小さく笑ってしまった。相変わらずわかりやすい。
「雨が」
 同じように短く云って、空を見上げる。黒い雲はますます大きく膨らんでいて、光を通さないように必死なご様子だった。
「雨も滴るなんとやらとか云うじゃん」
 彼は両手を頭の後ろに組んでのんびりと云う。雨に全く不釣り合いな笑みを浮かべていた。
「ただのびしょびしょに濡れたどぶねずみな鳴」
「そんなこと云うの名前だけだからね」
「え、嘘でしょ。その姿見てきゃーとかなるの? わっかんないなあ」
「俺だってお前にそんな風に見られたら気持ち悪くて吐くね」
 彼はふんっ、と鼻を鳴らして唇だけで笑う。その薄い唇の上には雨の雫がいくつものっかっていて、その上から顎に滑り落ちていく丸い雫は、とても美しく目に映った。
 その雫が、ふいに過去の記憶を蘇らせた。
「ねえ、鳴。覚えてる?」
「何を? 主語と目的語抜かすの名前の悪いクセだよね」
「わざとだよって云ったら?」
「なおのこと質悪いよ」
「昔一緒に見たカタツムリの話」
「カタツムリ?」
 鳴は怪訝な顔をしてわたしを見た。うん、カタツムリの話、と繰り返すとますます顔を顰めたのでわたしは仕方ないなあと昔の話をする。

 小学校の通学路には六月になると大きな紫陽花の花がいくつも咲く場所があった。青や、水色、紫、など様々な色の紫陽花が、雨の中で静かに存在していた。わたしと鳴はそこの前を通り過ぎた時、大きな葉っぱの上をのろのろと横断するカタツムリに出会った。どちらからともなく、そこへなんとなく立ち止まって、カタツムリが葉っぱの上を舐めるように移動していくのをただじっと飽きもせず見つめていた。そんなとき、鳴が唐突に音を紡いだ。
 でんでんむしむしかたつむり おまえのめだまはどこにある つのだせ やりだせ めだまだせ
 雨の中、紡がれるその歌は声変わり前の男の子の透き通った声だ。鳴は歌いながら、つのなのかやりなのかめだまなのかよく分からない二つの突起を指先でそっと触れた。その瞬間、シュッと引っ込んだ突起にわたしと鳴は目を丸めて感嘆の声を漏らす。その様子が面白くて、何度も何度も触るのを繰り返していると、だんだん反応が鈍くなってきて、そのカタツムリはぐったりとのびて動かなくなってしまった。もう一度、と恐る恐る触れてみても、身動き一つしない。
「動かなくなった…」
「…死んじゃったのかな」
 呆然とそのカタツムリを見つめながら呟くと、その自分の言葉になんだか悲しくなって、小さな命を奪ってしまったことに対して何らかの罪悪感と小さな悲しみが胸の中にぐるぐると渦巻いて、まぶたの下にどんどん熱が溜まっていった。隣にいる鳴を見ると、鳴は瞬き一つせず、じっと動かなくなったカタツムリを見ていた。鳴が瞬きを一つすると、まぶたから涙が静かに零れて、その涙は白い頬をゆっくりと伝って、顎の先に丸い雫をつくった。その顎の先からポタリと落ちた雫は、雨と一緒になって地面に溶け込んだ。次から次へと地面に落ちていく雫にわたしは驚いて、息を詰まらせた。わたしのせいで泣かせてしまったのだ。
「鳴、泣いてるの?」
 口に出さなくても分かることを聞いてしまうのは、昔のわたしの悪い癖だった。鳴はハッとしたようにわたしを見て目をゴシゴシと手の甲で擦る。彼は人一倍優しくて、人一倍意地っ張りな子だった。
「泣いてない」
 ぐっと下唇を噛み締めてそう云った鳴は、ひどく辛そうで、わたしはカタツムリが死んだことよりも静かに涙を流す鳴の顔の方が見ていて辛かったのだ。

 わたしはそんな雨の日の出来事を一通り話すと鳴はんーと唸って、「そんなことあったっけ?」と首を捻った。
「ビービー泣いてたじゃん。死んじゃったよーどうしよーって。あの頃の鳴は可愛かった」
「そんな昔のことなんて覚えてないし」
「そうやってどんどん忘れていくんだよ、鳴は。薄情だなあ」
 からかうように、半ば茶化すように云ったのに、鳴は懐かしむように目を細めてわたしを見ていた。碧い瞳の向こう側に、わたしの姿が揺らいで見えた。わたしと鳴の間を遮るように降る雨が、そのように見せているだけなのかもしれない。
「いーの! 俺は忘れたって。だって名前が覚えててくれるんでしょ」
 それだけ云って鳴は練習にそろそろ戻るわと背中をくるりと向けて、走って行った。
 わたしはその場から動けなくなって、ただ鳴の遠ざかっていく背中を眺めていた。雨の中なのに、やっぱり彼はほんのりと白く光っていた。
 あのとき、動かなくなったカタツムリと今のわたしがなんとなく重なった。わたしも、ああやって動けなくなって、死んでしまうんだろうか。
 わたしはまぶたをゆっくりと閉じた。
 幼馴染なんていうそんな脆い関係、早く雨に流されて溶かされてしまえばいい。
 そう想えば想うほど、全身を伝う雨粒がそっとわたしを包み込んでいる気がした。