彼とあいつらとあいつとあの子
「なあノリ、あれどう思う」
お昼休み、白州と話していると倉持がふらりとやってきた。何か用でもあるのかと訊ねると、第一声がこれである。俺たちは黙って首を傾げていると倉持は廊下の方へ顎をしゃくった。その方向に視線を転じれば、御幸がとある女子と話している姿が見えた。話している、というよりは、御幸が一方的に喋っている、もしくは喋りかけて絡んでいる、という方が正しいのかもしれないけれど。だがよくよく見れば、相手の女子も口元にうっすらと笑みを浮かべているので満更でもないのかもしれない。
「どうもこうも……。いつもの光景だね」
「そうだな」
御幸一也がとある女子生徒にぞっこんであるという噂が流れてからもう二年以上の月日が流れようとしていた。どちらも絵に描いたような美男美女ということで全学年に知られていて、廊下に並ぶ二人は常に注目の的だった。実際、本人に聞くとなんの衒いもなく「それ噂じゃなくて真実だけど」と短く言った。その顔が、マウンドに立ったときに見える真剣な表情そのもので、とても驚いたのを昨日のことのように覚えている。
「なんや、二人こそこそと」
話しているとゾノとナベもやってきて、俺は倉持と同じように顎をしゃくった。すると、二人ともああなるほど、という反応をそれぞれに示し、
「御幸のやつまだ諦めてへんかったんか」
「実るといいよね」
と、ゾノは意外そうに、ナベは子供を見守るお母さんといったポジションで彼と彼女を見た。そういえば、と倉持をみる。倉持はあの二人のことをどう思っているのだろうか。俺は倉持にそのまま訊ねた。
「知らね。興味ねえよ」
「倉持から言ってきたクセに……」
じとりと睨めば、倉持は片方の唇の端をつり上げて笑った。
「俺はお前らがどう思ってるのかに興味あってよ」
倉持はそう言ってるけれども、その真意は計り知れない。俺よりずっと勘の鋭いやつだし、なんだかんだ言って二年から同じクラスで一番近くで見てきた御幸に色々思うところはあるのだろう。それに倉持が意味のない問いかけをするとは考え辛い。
「でもさ、御幸ってなんでもできそうで野球に関しては同じステージに立てないって感じがするんだけど、ああいうのみてると人並みの人間なんだなって思うよね」
ナベは目を細めて沁々と言った。ちょっと御幸に対して失礼なことなのかもしれない。けれど、ナベの言いたいことはすごくよくわかった。普段、俺たちの前で絶対に弱音を吐いたり見せたりしないから、色恋沙汰で懊悩している姿の御幸をみると少し安心するのだ。
「人間臭くていいっちゅうことか」
「そういうことだな」
「でもうまくいかなかったらいかなかったで、ざまあみろイケメンって思うかも」
「せやな」
「ヒャッハ、あいつ言われたい放題だな」
皆それぞれに好き勝手言うけれど、俺はなんの心配もしていなかった。むしろ、心配するとこっちがバカをみるという気がしてならない。
「大丈夫だろ」
俺はそれだけ皆に言って、次の授業の準備を始めた。でもほんのちょびっとだけ、振られてしまえという意地悪な気持ちもどこかに存在していた。言わないけどね。イケメン滅びろ、とか声に出して言わないけどね。白州が黙って俺の肩に手を置いたのは同情なのかなんなのか。こいつはいいやつだから、俺が思っていることなんてこれっぽっちも考えないし、思わないんだろうな。あ、こんなこと考えている場合じゃなかった。次の授業当てられるんだった。
頭から雑念を振り払い、あわててノートと教科書を開いて、シャーペンを握った。
「お前ってほんと懲りねーよな」
ため息とともに吐き出された言葉には呆れが半分、感心が半分といったところだろうか。上から降ってきた声にスコアブックから目を離して見上げると腕を組んでこちらを神妙な面持ちで見下ろしている倉持がいた。諦める選択肢はねえの、と聞かれたので俺は即答でねえよ、と答えた。
「寧ろ、断られれば断られるほど、燃える質みてーだわ」
「うわー、苗字に同情するわ。しつこいと余計嫌われんだろが」
「わかってるって」
「苗字のどこが好きなんだよ」
スコアブックに目を戻そうとした瞬間に投げ掛けられた質問に、俺は驚いて思わず倉持の顔を見る。倉持はさっきとなにも変わらない表情で俺をただじっと見ていた。
俺は改めてどこが好きなのか考えてみた。でも具体的にどこがと問われてもわからないのだ。見た目、声、性格、雰囲気、どれもこれもしっくりこない。どこが、だなんて今まで考えたことがなかったのだ。
「へえ、お前がそこまで聞くのって珍しいな」
肩を竦めて笑ってみせると、倉持も同じように肩を少し竦めた。
「なんとなく聞いてみただけだ。お前がスコアブック以外にご執心のものあったんだなって思ってよ。しかも丸々二年間も」
「わかんねーんだよな、それが」
「あ?」
スコアブックを閉じて一番前の席に座っている苗字さんの背中を見る。昼休みはさっさと一人で昼ご飯を食べて本を読むのが彼女の常だった。まっすぐで凛とした背中はとても綺麗で見る人を惹きつけるのに、どこか人を寄せ付けない線が張り巡らされているように見える。その線を飛び越えてその背中に触れたいと思い始めたのはいつだったか。もうずいぶん前のことのように思う。
「どこが、とか、そういうレベルじゃないってことだよ」
「ふーん」
「聞いといてその反応かよ」
倉持のどうでもよさそうな、なんとも気の抜けた返事に思わず苦笑する。
「プレーに影響でねえ限り、お前の恋愛事情なんてクソどうでもいいからよ」
「やだ、倉持くんったら。ツンデレ?」
少し茶化したように言うと鋭い眼光で睨み付けられ、目の前に見えるのは突き付けられた二本の指。
「きめえ。眼鏡カチ割んぞ」
所謂元ヤンというのを十分に発揮した倉持がいた。
おお、こわいこわい。
俺は降参の意味も込めて黙って両手を挙げることにした。
「苗字、御幸のこと好きだろ」
苗字は俺にそう訊かれるのをなんとなく察していたのか、唐突な質問に驚くこともなく俺の顔をじいっと何かを見定めるように視線を注いでから、
「うん、好きだよ」
のんびりとした口調で言った。かたちのいいその唇は、ゆるりと弧を描いていて、女子高生が笑う様にしては随分大人っぽい笑い方をした。俺はこの笑顔がどこか苦手だった。
「で、倉持君が本当に聞きたいことはなにかな」
小首を傾げて俺の瞳の奥の真意をうかがうように見る。ああこれは俺の内心を全部見透かして言っている。遠回しにそつなく訊ねようとしていた自分が急に恥ずかしく感じられた。だから、俺は直裁に言い放った。
「なんで好きなのに付き合わねえのか純粋に疑問に思った」
この答えじゃ不満かよ、と眉を寄せれば、苗字はころころと鈴を転がしたように喉の奥で笑った。その度に肩にかかった髪の毛が小さく揺れる。
「いいや。じゅーぶんだよ」
読んでいた本に栞を挟ませ、ぱたりと閉じた。その栞は楽器のかたちをしていて、銀色に光っていた。放課後になると彼女がいつも熱心に吹いている楽器のかたちであった。グラウンドいっぱいに響くあの音はこいつが吹いているんだなと今更ながらに思った。
「好きなんだけど、わたしがダメなんだよね」
苗字はいちどゆっくりと瞬いた。苗字のまっすぐに伸びた長い睫毛が目の少し下あたりにくっきりとした影を作っていた。たったそれだけの仕草なのに、いちいち絵になる。
「自分が思ってるよりも、付き合うと重くてめんどくさい女になると思うし、なにより恋にうつつ抜かしている場合じゃないからさ。部活に専念して、全国行って御幸君と同等の立場になってからきちんと返事がしたい。ただそれだけ」
苗字は廊下の外を見つめながらよく響く凛とした声で言った。そういえば、と俺は二年前の記憶を思い起こす。一人一文ずつ音読させる授業の中で大体の生徒がぼそぼそとなにを言ってるのかよく聞き取れないような声で音読する中で、苗字だけはしゃんと背筋をのばして朗々と音読していた。その授業が終了したあとも、苗字の声だけは耳の中にしっかりと残った。こころもち高めの、しかし中音のじゅうぶんに混じった、よく響く声。その声は、あの楽器の音にも混じっている。野球部の公式戦に聞こえるあの芯の通ったはっきりとした音。俺は打つとき、その音のどこかに苗字の気配を感じている。
「お前、男前だな」
「それ、褒めてないでしょ」
「すっげえ褒めてる。あと御幸がお前のこと好きになる理由、少しわかった気がする」
「そ?」
「おう」
「わたしは不思議でしょうがないのにね。どちらかといえば倉持君の方が気は合うかもしれないよ」
苗字は挑戦的な笑みを口元に浮かべた。俺は唐突に紡がれた言葉に驚いて、一瞬思考が固まってしまった。そして俺はこのとき気付いてしまった。どうしようもない自分の気持ちに。遅すぎたその気持ちは心の奥に誰にも気付かれないようにそっとしまいこむ。きっと、日の目を見ることはもうないのだろう。
「でもお前と恋人はごめんだな。腹の探り合いになんのが目に見えてる」
「そう言うと思ったよ」
苗字は満足そうににっこりと笑った。その顔はなんだかあいつを彷彿とさせて思わず顔を顰めた。どこか似ている二人に、俺はずっと振り回されるのかもしれない。いや、もうすでに振り回されているのだろう。
「お前、友達少ねえだろ」
苗字はその言葉を予想してなかったのか僅かに目をみひらいて、心外だなあと唇をちょっと尖らせた。その顔はとても新鮮で普段とは考えられないくらい子供っぽかった。そんな顔もできんだな、と笑うとますます唇を尖らせて眉を寄せる。とても不本意らしい。
「倉持君に言われたくないんだけど」
少し拗ねたような声音に俺はまた笑ってしまうのだった。
そのあと、俺と苗字が話しているのを視界の隅に入れた御幸になに話してたんだよとしつこく詰め寄られることになる。
ああ、めんどくせえ。でも、お前とあいつならうまくいくだろ。言ってやらねえけどな。
「苗字さん、いつになったら俺のこと好きになってくれんの?」
前より少し切羽詰まった余裕のない声におやと眉を上げる。どうしたのだろうか、何かあったのだろうかと思案してみるけれどもわたしには思い当たる節がないから諦める。
「さあ、いつだろう」
このやりとりも何回目になるのだろうか。彼はなかなかにしぶとく、加えて図太い精神の持ち主らしく、最初の頃はすぐに諦めるだろうなんて思っていたのだけど一年の頃からこうして三年の四月までこのやりとりは続いていた。そのうちにわたしの頑なだった心も絆されてしまっていつの間にか気を許してしまっているのが自分でもわかる。そのたびに、わたしらしくないなあとひとり苦笑するのだ。
「俺、何回振られんだろうな。そろそろギネスブックに載るんじゃねーの」
「そんなのギネスブックに載らないよ。あとさ、御幸君は大層おモテになるのなら、振る方の労力も考えてよね、モテモテの御幸君」
御幸君はわたしの話を聞いているのかいないのか、よく分からない。わたしが持っていた本をするりと取ってパラパラとページをめくる。鼻の根元に乗っているメガネが少しずれているというのに、その姿はすごく様になっていて、御幸君の顔を思わずじっと見詰めた。すると、その視線に気付いた御幸君はニヤニヤとした顔で「見惚れた?」などと問いかける。わたしはその声に弾かれるようにして我に返った。その問いを丸ごと無視して、本を返してと咎める視線を向けると、すぐに本は戻ってきた。わたしはその戻ってきた本をそっとなでた。
いつの日か、あなたは野球より本の方が似合うんじゃないのと言ったことがあった。すると彼はニヤリと不敵に笑って「ということは俺と苗字さんも似合うってことだよな」そんなわけのわからぬことを言った。彼はその時と同じように笑った。
「どんだけモテモテでもさ、好きな人にモテなきゃ意味ねーよ」
言いながら御幸君の指がそろりとわたしの手の甲に触れる。手の甲の少し浮き出た骨をゆるゆるとゆっくりと辿って、指先までなぞる。大切なものをなぞるみたいに。わたしが本をなでるみたいに。
あのね、御幸君。そっと名前を呼ぶと、彼の指の動きが止まった。
「わたしも全国行くから、待っててよ」
一つ大きく息を吸って、再び言葉を紡ぐ。
「わたしも、御幸君が夏に全国行くの待ってるから」
彼はぽかりと口を開けて固まっていた。いつもの飄々とした声も表情も何もかもが吹き飛んでしまったのか、よく言う鳩が豆鉄砲食らった顔と例えるのが一番しっくりくるような顔をしていた。
「俺さ、本当に苗字さんのこと、好きだわ」
彼はわたしの目をまっすぐに捉えた。今までに見たことないくらいやわらかくてあたたかな光を滲ませた笑顔だった。
心臓の脈打つ音がはやくなる。うまく御幸君の顔を見て話すことができなくなって思わず目を伏せた。僅かに触れている指先から溶けてしまいそうなほどの熱を感じて、思わず手を引っ込めようとしたのだけど、御幸君の大きな手によってその行為は阻まれる。熱い。御幸君の手が、注がれる視線が、言葉が、ぜんぶ、ぜんぶ、熱い。
「俺も待ってるよ」
わたしはそのあたたかくて真摯な声にただ大きく肯いた。
もうとっくに、あなたのこと好きなんだよ。