海に溺れる
ふと、意識が浮上する。ぼやぼやとした視界の中で、数回瞬いても変わらない闇に、まだ真夜中なのだと知る。
そっと体を横に向けると、わたしに背を向けた状態で御幸が眠っている。布団をきっちりと肩までかけている様子を見て、彼らしい姿に静かに笑む。だが、よく耳を澄まさないと聞こえないくらいに小さな寝息は、わたしを酷く不安にさせる。
一緒に住み始めて最初の頃は、あまりにも静かに寝ているものだから、ちゃんと呼吸をしているのか不安になった。もしかして息をしていないのではないか。そう思ったわたしは、速まる鼓動を抑えてつけて、御幸の鼻の下に手を翳し、僅かに鼻の息が洩れ出るのを確認して、自らの考えが杞憂に終わったことに安堵のため息を吐いたことを昨日のことのように思い出せる。彼は過去にわたしがそんなことをしていただなんて露程も知らないだろう。
眼前に広がる海のような大きな大きな背中も、わたしをたちまち不安にさせる要因の一つだ。彼からわたしに弱音を吐くことは滅多にない。周りを頼らず、寄せ付けず、自分一人で何でも解決してしまう力を彼は持っていた。きっと、彼が幼かった頃の環境が、そういう人となりを象ったのだろう。それでもそんな彼を見て思うのだ。色々なものを背負い込みすぎて潰れてしまうのではないか、はたまたはその全くの逆で、彼の存在そのものが大きすぎて、わたしというちっぽけな存在は見えなくなって、彼の中でわたしの存在が丸ごと消えてしまうのではないか。本人にそんなことを言うと、たちまち機嫌を損ねてしまう恐れがあるので口には出さないが、ときどき、このおおきな波に呑み込まれるように襲われてしまうのだ。
そんな曖昧で不安定な波を遠くへ退かせるために、目を再び閉じて、その大きすぎる背中に額をくっつけた。とく、とく、とく、とゆっくり刻む心臓の鼓動が肌を通して心地よく響く。ああ彼は生きていて、わたしの近くにいるのだ。そう思うと、わたしを丸々と呑み込んでいた感情の波が徐々に引いていく。胸に溜め込んだ息を、そっと吐き出した。
「名前」
起きてんの、と不意に御幸の声が闇の中に落ちた。突然の声に、息を詰めた。
「うん。なんか、目が覚めちゃって」
「そっか」
起こしちゃったね。と言えば、彼は間髪入れずに「俺はずっと起きてたよ」とさりげない口調で爆弾を落とした。彼からわたしの顔は見えないのは承知だが、先ほど自分が密やかに行った一連の行動が急に恥ずかしく感じられ、咄嗟に布団に潜り込んだ。彼はそんなわたしを見てにやにやと笑っているに違いない。案の定、名前わかり易すぎ、と笑いを含んだ声で言った。
「もっと甘えてくれていいのに」
彼がわたしの方に体を向けたのがわかった。彼の顔は見えないけれども、なんとなく眉を下げて困った顔をしている気がした。何と言ったらいいのかわからず、そのまま口を噤む。短い沈黙が落ちる。それから彼は「俺さ」と声の調子を唐突に変えて言った。
「ときどき不安になんだよな。お前、どっか消えちまいそうで。俺から離れてお前が見えなくなったらどうしようって思うときがある」
わたしは彼の言葉に小さく笑ってしまった。立場は違えど、彼も自分と同じことを考えていたようだ。ふふっと鼻から息が洩れ出るわたしに対して、彼は「笑うとこじゃねーんだけど」と不満気に呟きながら、腕をわたしのお腹にまわし、彼の胸に抱き寄せられる。非力なわたしはされるがままだ。そして甘えるように彼はわたしの肩口に顔を埋めた。首筋に掛かる髪の毛がほんの少し擽ったくて身を少し捩るも、腕と脚でがっちりホールドされてしまったので、身動きができない。わたしはまるで捕らえられてしまった魚だ。小さな小さな魚だ。
「わたしも同じだよ」
御幸の頭をそっと撫でながら、ぽつりと零した。御幸は「なんだそれ」とわたしの言葉に不服そうに苦笑しながら、まわした腕の力を強めた。ほら、あなたの腕にすっぽりと全ておさまってしまうくらいわたしは小さいのだ。わたしは大海原にひっそりと住まう、小さな魚なのだ。
ねぇ、と小さく彼に問うと、彼は、ん? と言葉を促した。
「何でわたしが見えなくなりそうだと思ってしまうのか、教えてあげようか?」
「へぇー教えてくれんだ」
「一也が大きすぎるからだよ」
でも、たとえあなたがわたしのこと見えなくなっても、そばにいる。あなたがいないと窒息して死んでしまうから。かぷかぷ、ぷかぷか、わたしはあなたに溺れましょう。
心の中で吐露した言葉の代わりに、彼が身につけているわたしとお揃いの薬指の環をそっと撫でる。そして、きっと再び不満気に歪められているであろう彼の顔に、唇を一つ、落とすのだ。