つぶつぶ泡が流れて行きます。
医者に宣告された言葉が、頭の中で泡のようにつぶつぶと水面にあがって弾けては再び新しい泡があがっていく。病室に見舞いに行っても、近頃、名前は眠っていることが殆どで、俺はその寝顔だけを眺めて病室を去ることが多くなっていた。病人を無理矢理起こすことが躊躇われた、というのも勿論あるのだけれど、もし話し掛けても永遠に目覚めなかったらという不安と恐怖に駆られて起こせなかった、というのが本当のところだ。
今日は久々に起き上がっていて体調も良さそうだったので、御幸と倉持が持ってきたという大きな梨を食べることにした。彼女は剥く!と張り切るのだけれど、点滴が何本も利き手に刺さっている状態で剥かせる訳にはいかないし、そもそも身体を動かすのもやっとなのだ、無茶な話である。なので、俺が剥くことになった。
随分と馴れてしまった包丁捌きに自分で感心してしまう。そうか、名前が家を出て病院にいるようになってからもう二年が経とうとしていた。そりゃ慣れるわけだ。
しゃりしゃり。水っぽい表面を刃が滑る。
梨の皮を剥きながらも、後ろから痛いほどの眼差しが突き刺さっていた。けれど、振り向くことが出来なかった。今振り向いたら、ひた隠している本音が表面化に出てきそうだから。
俺を置いていくな、一人で暮らすには家が広すぎるんだ、と。女々しい言葉のオンパレードである。それを云うことだけは避けなくてはならない。
瑞々しい梨を皿に盛り付けていると、不意に、澄みあがって悲しいほど美しい声がした。
「亮介」
あと何回、その声で名前を呼ばれるのだろう。肉声を脳に刻み込む。
「何?」
一言一句聴き逃さないように、耳に全神経を集中させる。
「ありがとう」
今までで一番、やさしくてやわらかな声に、そして、その言葉の裏にひっそりと隠された意味に、頭の中の泡が一斉に弾けた。ぐっと喉の奥がしまって、息が詰まる。鼻の奥とか、目頭とか、耳とか、胸とかに水が入り込んでしまったのかと思うくらい苦しくなって、呼吸がままならない。
最期の最期まで、嘘をつくのが下手くそなんだ、彼女は。
「名前、生意気」
なんとか出した声は、空気に絡まって拗じ曲がる。でも、とても小さい声だったからか、名前はそんな俺の様子には気付かず、耳を擽るような声で笑い声を立てた。
最期ぐらいは、お前のその嘘に、騙されてやってもいいのかもしれないね。
その「ありがとう」が「さよなら」を意味していることを知ってるんだ。
お前は俺がそれに気付いてることなんて、知らなくていいよ。
泣きそうになってるだなんて、知らなくて、いいんだ。
俺だけが、知っていればいいんだ。
title:宮沢賢治『やまなし』