白い直線と曲線で描く放課後
日直という仕事は実に面倒くさいものである。朝早めに登校し、担任の先生から日誌というやつを受け取る。それから教室の机、椅子などの整頓を行う。十分しかない貴重な休み時間は毎回授業に書かれた黒板の文字を消し、下校する前には日誌に教室や校内で行われた授業内容とまたその状態など記入し、さらにその感想や意見もクラスの代表として記入しなければならない。そして最後には教室のゴミ捨てを行ってから黒板の雑巾がけをして、日直の仕事は終了となる。
だが、この最後の黒板消しを綺麗に済まさないと帰れないという校則がある。そんなものを綺麗にわざわざやる必要がないとは思いつつも、文句の付け所がないくらいピカピカの黒板にしてしまうのは哀しいかな、自分の性だ。
さぁ、教室を出て職員室へ日誌を置いて帰ろうと鞄を肩に引っ掛けた瞬間、ガラリと扉が開いた。そちらに視線を巡らすと小湊くんがいた。
「あれ? 今小湊くんはEクラスで受験の補習のはずだよね」
「うん、そうだね」
「サボり?」
「ご名答」
堂々と答える彼に私は呆れながら、この教室の鍵を小湊くんの眼前に突き付ける。チャリ、と鍵が左右に揺れた。
「残念だけど、今からここ閉めるよ」
「それは残念だなあ」
ちっとも残念そうな口振りではなかった。寝ようと思ったのにな、などとぼやいている小湊くんを尻目に鍵を教卓に置いて「じゃあ戸締まりよろしく、小湊くん」と言い残して面倒事を押し付けるように教室から出て行こうとした。が、やっぱりと云うべきか、呼び止められる。うん、そうなると思ってたよ。
「ちょっと話につきあってよ」
私は彼の意外な言葉に驚いて目を見開いた。小湊くんからそう言われるのは初めてのことだった。
「珍しいね」
「そう?」
「うん」
ひとつ頷いてから、少しずれた鞄の紐を肩に掛け直して壁にかかった時計をちらと見る。短い針は既に五時を指していた。
「でももう五時だよ。暗くなるし」
「じゃあ、送ってくよ。それならどう?」
彼は、こてん。という音が似合うような首の傾げ方をした。普通の女の子ならば、その容姿も相俟って可愛らしく見えるのだろうけれど、私は三年間彼とは同じクラスで普段の彼の性格も十分知っているので、私の目にはとてもあざとく映った。何か裏でもあるのかと邪推してしまうのは、今までの小湊くんの普段の行いのせいだ。それに加え、二人きりになるのは気まずかった。どくんどくんと血液を送り出す心臓の音がうるさい。この心臓を今だけ体から取り外し可能ならばどれだけ楽になれるのだろう。実際にそんなことすれば死んでしまうのだけれど、この状況下ではそれを切実に願ってしまう。私はこの空間から逃れるべく、言い訳を口にする。
「えっと…今から、予定が、」
「苗字今日予定ないって昼休み純と言ってたじゃん。それに大学は推薦で決まってるし、彼氏もいないんだし暇でしょ」
言葉の端々全てが失礼である。だが、どれもこれも真実であり、うっと思わず息を詰まらせてしまう。それが何よりも肯定の意味に他ならないことぐらい小湊くんもわかってるのだろう。小湊くんは喉の奥でくっと笑い声を立てた。分の悪い私は、渋々教室からはみ出した半身を再び戻し、一番前の席に座って教壇に立つ小湊くんを見上げた。いつもは同じ目線にあるはずの彼の顔を見上げるのは、なんだか妙な気分だった。
「で、話って何?」
机に頬杖をついて、できるだけ胸の内にある感情を隠すように不貞不貞しく促すと、至極真面目な顔をして、
「なんで人は恋をするのか」
と、突拍子もないことを言った。本当に暇潰しの言葉遊びのようなものなのだろうが、顔はあくまでもいつものポーカーフェイスなので、私には本気なのかふざけてるのか量りかねる。どういう意図でそんな話を私にするのか、全く見当がつかない。戸惑っている私を置いて、小湊くんは続ける。
「ーーずっと昔」
白いチョークを手に取り、黒板に何やら描き始めた。何もなかった深緑に白の線が刻まれていく。先ほど時間をかけて拭いたばっかりなのに、と苦言を呈する間はなかった。
「人間は、二人で一体のこんな感じだったらしい」
綺麗な一つの楕円を描いて、その両端に鼻と認識できる三角を付け加えた。ぱら。と、ときどきチョークの欠ける音や、とん。と黒板からチョークを離す音がやさしく耳朶を打った。
「んー人間っていうかパックマンって感じだね」
思ったこと率直に言うと、小湊くんは憐れみと軽蔑の両方の感情を孕んだ視線を私に向けた。
「苗字は想像力が欠落しているんだよ。あとそれ以上茶々入れるとどうなるかわかってるの?」
ごごごと音がしそうなほどただならぬ不穏なオーラが小湊くんの全身から立ち昇るのが見えた。きっと彼お得意の手刀を私の頭に落とすつもりなのだ。あれは地味に痛いことを私は身をもってよく知っていた。私は咄嗟に「どうぞどうぞ! お話の続きを!」と頭を垂れて続きを乞うた。そんな私を見て、小湊くんは満足そうに唇を吊り上げて続ける。完全に弄ばれている。だが、不思議とそれを指摘する気持ちにはならなかった。
「二人で一体、つまり能力も二倍でなんでもできるから、人間は調子に乗っちゃったんだ」
人間には到底見えないそれを眺めた。すると、私の表情を読み取った小湊くんが「これは歴とした人間だよ」と些か語調を強めて言うので、からかう言葉をぐっと喉元で留め、そういうことにしておこうと仕方無しに認めることにする。
「それで愚かな人間はいい気になって“神様なんていらない”って言ったら、神様が怒って人間を二つに分けた」
その得たいの知れない楕円の人間の真ん中に、すらりと直線が縦に引かれる。定規を使ってないのに、機械が引いたのではと疑ってしまうくらい真っ直ぐな線はさすが小湊くんといったところか。小湊くんは、黒板に背を預けてゆっくりと言った。
「それから一人になって人間は、一人じゃ何もできないことを知るんだ」
美しく整った眉の下の両眼が私を捉えて離さない。いつもは冷ややかな目元が、見たこともないくらいやわらかくて温かなもので彩られていた。
「そうして今も、失った自分の半分を探して、俺達は恋に奔走してるっていう話」
再び小湊くんは黒板に目を戻して「まぁ、要するに運命の人ってことなんだけど」と軽やかに笑いながら言った。普段ならそんな臭い台詞よく言えるねと一笑するのだが、うるさいぐらいに鳴り響いている心臓の音が、それに伴って送り出される見えない想いを混ぜた血液が、それを許してくれなかった。
小湊くんは黒板から背中を浮かせて、真っ二つにされた愚行を犯した人間を黒板消しでするりするりと消してゆく。力を入れないで消すものだから、小湊くんが「消した」と言っても、未だにチョークで描かれたそれが、黒板に淡く滲んでおり、うっすらと見える。それをぼんやりと眺めながら、ひとつの疑問が浮かんだ。
ーー小湊くんは、その運命の人を見つけたの?
だが、それを聞くのは野暮というものだろう。その質問はひっそりと胸の奥に仕舞い込む。逆に問われてしまえば、狼狽えるであろう自分がいるのがわかっているからだ。
「日直も悪くないね」
私はいつの間にか口にしていた。けれど小湊くんの耳には届いてなかったようで、怪訝な顔をして「何?」と小首を傾げる。私はそれに「日直も悪くないなあと思って!」と大きな声で繰り返し言えば「ふーん」と気の無い返事が返ってきた。でもその声音はどこか優しさを含んでいた。
私はずっと前から小湊くんの運命の人になりたいんだよ、と言ったら小湊くんはどういう顔をするのだろうか。
小湊くんが何故私にこの話をしたのか真意はさっぱりわからないが、近い未来に訪れる卒業式の日にでも、この話をした彼の肚の底を聞こうと静かに心に決める。濡らした雑巾で再び黒板を拭きながら、そんなことを思った。
消えてく真っ二つにされた人間に、さよならを添えて。