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We'll take it from there

 日誌を書き終わってほっと一息ついたら眠気が襲ってきた。帰宅する前に少し寝ちゃえ、と思って机に寝そべる。ひやりと頬に当たる机の感触が気持ち良い。目を瞑るとあっさりと眠りについてしまった。とてもとても短い夢をみていたのだが、ほっぺに何やら柔らかい感触がして、私は目を覚ました。
 ぼやぼやした視界に映ったのは、今日一緒に日直をやった御幸の整った顔で。しかも顔の距離がとても近い。

 え?

 口をあんぐりと空けて放心していると、くつくつ声を押し殺して笑う御幸がいて、ほんとおもしれーとかなんとか独り言を愉しそうに言っている。全く意味がわからない。そして今、私は、何をされた。理解が遅れてやってくる。その途端、顔がカッと熱くなった。私は動揺している心を制御できないままに口を開いた。

 み、みゆき何してんの?!
 何って、ほっぺにちゅーした。
 いや、だから、何で?!
 わかんねー?
 わ、わかんないよ。なんで、いきなり。
 じゃあずっと悩んでろ。バーカ。
 はあ!?
 ま、要は済んだし、俺部活行くわ。
 え、ちょっと…。
 ゴミ捨て行っといたぜ。日誌はよろしく。あ、そうそう。ヨダレ、拭いといたほうがいいぞ。

 ここな、と御幸は自らの唇の端を指差してメガネの奥の瞳をじっと細めて笑う。
 嘘?! 早く言ってよバカ!と私は慌てふためいてハンカチで口許を拭うと、御幸はその様子をにやにやと人の悪い笑みを浮かべて見ていた。
 じゃあな。そう言い捨てて、手をひらひらと振って教室から出て行く。
 先程の出来事は全て嘘だったんじゃないかと思うくらい静まり返った教室で、私は茫然としていた。だが、ほんのりと残る頬の熱さは嘘ではないと物語っていた。
 何だったんだ、いったい。夢か。ほっぺを強めにつねる。痛い。非常に痛い。現実なわけで。私は先ほどの御幸の行動と言動を頭の中で反芻させる。あとから考えれば、あの一連の出来事は私だけがあたふたしていて、やけに冷静な御幸がからかっていただけのことなのだ。そうだ、きっといつもの悪ふざけの延長線上に違いない。そう思うと、胸の中のもやもやが少しだけおさまった。
 日誌を職員室まで届けて、校門を通り抜けると、ふいにキーンと野球のボールがバットに当たる音がグラウンドいっぱいに高く鳴り響いて、私は思わずそちらを振り返る。そして頭の中に浮かぶのは「バーカ」と言ったときの御幸の憎たらしい顔で。
 私はその顔を頭の中から払拭したくて首が千切れてしまうんじゃないかと思うくらいの勢いでぶんぶんと首を振る。周りの目を気にせず私は数回それを繰り返すが、御幸の顔は消えてくれなかった。
 そもそも、涎垂らして寝ている色気皆無の女子のほっぺにチューするっていうのがそもそも謎だ。御幸にはそういう趣味があるのだろうか。だとしたら、彼は変態だ。無くなったと思っていたもやもやが胸の中で再び立ち込める。
 そして今までの彼の行動を頭の片隅で思い起こす。ひらりひらりと舞う記憶の断片を繋ぎあわせると、あれ、そういえばいつも御幸は距離が近い気がするだとか、最近はいつも隣にいるなあだとか、いつの間にか下の名前で呼ばれているなだとか、次から次へと不可解な行動が明らかになっていく。私は今の今まで御幸のことを意識したことがなかったのだ。
 悶々と思考の沼にずぶずぶとはまり込む。私はこの時すでにまんまと彼の思惑にどっぷり浸かっているのだが、そのことを知るのは大分先のことだった。


○△□


 ゴミ捨てから戻ってくると、教室で堂々と眠りこけている名前の姿があった。俺はやれやれとため息をついて、名前が眠っているのをいいことに前の席に座ってその顔をじっくりと見る。名前は口から涎を垂らして実に気持ち良さそうに眠っていた。
 あどけない寝顔だとか、見るからにやわらかな頬に落ちた長い睫毛の陰だとか、中途半端に開けられたぽってりとした唇だとかが目の毒だった。名前の寝息を感じるほどの距離まで顔を近づけても起きる気配はまるでない。無警戒にもほどがあるだろと俺は眉をひそめる。
 俺は名前の唇にキスをする衝動をなんとか押さえ込んで、やわらかな頬に唇をそっとあてる。まあ、端からみたらこれもアウトなんだろうが、ずっと片想いをしている俺の気持ちにもなってみてほしい。どれだけ好きだとアピールしても告白まがいのことをしても気付きもせず、男として意識すらしない名前にやきもきしていたのだ。
 柔らかい頬から唇を離したその瞬間、ぱっと名前の目が弾けるように開いた。俺は咄嗟に言い訳を頭の中に浮かべるが、ぽかんとした表情の名前がみるみる顔を赤くしてゆく様子をみて、俺は口元が緩むのがわかった。
 言い訳なんてしなくていいではないか。
 そう、もっと赤くなって動揺しろ。一年のときからずっと、名前の何気ない言葉や行動に振り回されて、さんざん悩んできたのだ。だから今度は名前が俺に振り回される番じゃないのか。
 これを切っ掛けに少しでも名前の思考の片隅にでもいいから俺が入り込んで、それからどんどん大きくなって土足で暴れまわって心の中を蹂躙するようになったらいい。
 そうして、ようやっと俺と名前の気持ちが均衡になるのだから。

 なやめ、ばーか
 そしていい加減、気付け


(あとは追々ということにしようか)