クラムボンはわらったよ
僕はときどき、忙しい兄に変わって名前さんの様子を見に行く。僕は脇にある丸椅子に座って、名前さんと他愛のない話をして、兄から頼まれた洗濯物や名前さんの好きなものを渡して帰る。いつものように帰ろうと腰を上げると、僕の着ているジャケットに名前さんの細い人差し指が引っ掛かった。
「春市くん」
名前さんは、凛とした声で僕の名前を呼んだ。その声はあまりにも儚い響きを孕んでいて、僕は息をごくり呑みこんだ。頭の中で警告音がわんわんと鳴り響く。今すぐに、この指を無理矢理に引き剥がしてこの部屋から出ろと。
「お願いがあるの」
僕は肩でゆっくり息を吸い込んでから、「お願いって?」と聞き返す。ほとんど吐息みたいな声が出た。今すぐに、何か別のことを話さなければならないと思うのに、喉が張り付いたように動かない。それは、名前さんの瞳の中にゆらゆらと燃えている決意の色が、僕に何も言わせないようにこちらを射貫いているからだ。
「春市くんは、もうわかってると、思う」
途切れ途切れに洩れる彼女の声が、どんどん透き通っていく気がした。
だめだ、これ以上彼女の声を聞いてはいけない。全身がわなわなと震え出しそうになるのを必死に抑える。
「先が、長くないから、」
僕はその先の言葉を遮るように「名前さんっ、」と叫ぶ。
僕の声が病室に反響する。カタカタ。ガタガタ。彼女に繋がっているいくつもの点滴チューブが揺れている気がした。それでも、彼女の声は止まらない。
「私がいなくなったら、亮介をしばらくの間、お願いします」
真っ白のベッドの上で、深々と下げられた丸い頭を僕は茫然と見る。彼女を象る輪郭線が小刻みに揺れていた。僕の服を掴んでいた名前さんの細い指先は、今はシーツを引っ掻いている。シーツのシワがじりじりと深くなる。力が殆どないその手を力一杯に握り締めながら、彼女は僕の答えを待っていた。その血管が浮き出て青褪めている手に、僕の手を重ねる。ヒヤリとした肌に少しでも熱が灯りますようにと願いながら僕は口を開いた。喉はカラカラだ。焼けているようだ。
「うん、わかった」
彼女はゆっくりと頭を持ち上げた。ゆるりと目もとを和らげ、血の気のない薄い唇が動く。
「ありがとう」
透き通ってそのまま空気になってしまいそうな笑顔を、僕は直視することができない。そして彼女の声は安堵に溢れていたことが、何よりも僕の胸に堪えた。
この人は、こうやって一人一人にお別れを告げているのだ。こんなにも暴力的で残酷な「ありがとう」を僕は聞いたことがなかった。彼女はきっとそのことに気付いてはいない。もう、兄にも告げたのだろうか。
名前さんの簡易机に、ラップで丁寧に包まれた梨が置かれている。一口だけ齧られたその梨が、ぼうっと僕達二人を見ていた。