夢の外へ連れてって
約六百人ぐらいが、澱んでいる空気をさらに澱ませるように吸ったり吐いたりを永遠と繰り返している。それだけの密閉された空間に閉じ込められていた。上から憂鬱を降らすように光る蛍光灯が、空気の中にある塵を浮かび上がらせ、私はそれを吸い込まないように、息を詰まらせる。当然苦しくなって、結局、皆の吐き出した気怠い二酸化炭素と窒素を大きく吸い込んでしまい、思わずその空気の塊に噎せてしまう。お爺ちゃんみたいな先生が、レジュメをスクリーンに映し出し、淡々と覇気のない声で説明をしている中、げほごほ、と私の噎せた声が響き渡る。隣の友人である川上君が眉間にシワを寄せて訝しんだ。その瞳は、一人で何してるの?と声にはしないが、そう問うていた。私は下唇を突き出してレジュメの右端に走り書きをする。みんなのにさんかたんそをきょうゆうしているだけのこのくうかんがいやだ
彼はその文字を見た。そして呆れたように小さく息を吐いて、その下に書いた。
あと30分で終わるじゃん 我慢だよ
私の平仮名のお化けみたいな汚い文字の羅列とは違って、綺麗且つご丁寧に漢字まで使って書いた真面目な彼は、再びスクリーンに顔を向けた。
あとさんじゅっぷんがながいんだよ たえられないよ
その下に書くけれど、彼はもうこの紙を見ることはなかった。真っ直ぐにただ前を見つめていた。私は胸の中に溜まった憂鬱を吐き出すように息を大きく吐いて、無駄に長い机に頬杖を突いて仕方なくスクリーンに目を向ける。
ああ息苦しい。つまらない。
私は再び舞い上がっている埃を眺めながら、胸の内に文句を吐き出す。
誰か私をここから連れ出してはくれないだろうか。頭の中だけでいいから、この息苦しくて汚い掃き溜めみたいな空気から逃れられないだろうか。
私は私の頭の中にある妄想と想像に手と足を生やして、そいつを一人歩きさせる。
この教室から出て行って、私は彼氏である御幸の元へ歩き出す。通りの真ん中をずんずん歩いて景色など無視して御幸のことを考えながら歩くのだ。今頃きっと彼は練習をしているだろう。いや、休憩中かもしれないけれども。まあそこは置いておく。まず私は学校の門を出て駅へ向かう。電車を乗り継いでその目的地近くの駅まで行く。着いたら、携帯のナビを駆使して、方向音痴な私は迷いながらも練習しているところへなんとか辿り着くだろう。一般の人が入れないところを堂々と歩いて、御幸を見つける。そして御幸の練習してる姿を見つからないようにこっそりと見つめて瞼の裏に焼き付ける。練習が終わった頃、私は御幸の前に立つ。御幸はどんな顔をするのだろう。驚いて茫然とするだろうか。それとも「何で?」と口にするだろうか。きっと、御幸なら驚いてくれるに違いない。そんな彼に私は来ちゃった、と言って彼の驚きの目が見れず視線を彷徨わせてから俯く。視界に入る靴を眺めながら御幸の言葉を待っているとーー
とんとんと肩を叩かれる。私はハッとして想像と妄想から一気に現実に引き戻される。そうだ、私は今大学に居て授業を受けているのだった。
「苗字さん、」
どうやらこの六百人もいる中から私が問題を当てられたらしい。ついていない日だ。慌てて隣の川上君に答えを聞く。川上君はすぐに教えてくれて、私はそのままに言う。はい、正解です、とお爺ちゃんみたいな先生は言って、またこのレジュメの説明を再開した。
川上君にありがとうと小さな声でお礼を言うと、ぼうっとしすぎだよと注意を受けた。ごもっともな言葉に私は何も言い返さず、ただ前を向いて現実を見る。私の中の妄想と想像は手と足を失くしてしまって、私の頭の中に戻ってきていた。
ちかり、ふいに鞄の中に入っている携帯のランプが灯る。私はその色を見て、あっ!と小さく声を上げた。しまった、と思った時には既に遅く、周りの視線が一斉にこちらに向いているのがわかった。私はてへへと笑って誤魔化して、授業をいかにも真剣に受けてますという表情を作って前を向いた。隣から不審な目つきで見る彼を無視してバレないように机の下でそっと携帯を開く。
『今日の夜会える?』
簡潔にそうメッセージが送られてきていた。私の脳の中にある妄想が本当に歩き出して、彼に伝えたかのようなタイミングだ。私はすぐに返した。
『うん、何もないから大丈夫』
そう返すとすぐに既読の文字が現れて、新しいメッセージが届く。
『泊まりに行く』
顔に嬉しさを隠しきれず口元が思わず緩んでしまう。彼に会うのは一ヶ月ぶりである。授業が終わったらまずスーパーへ行って、買い物をしよう。そして彼の好きなものをたくさん作って、それから一緒に録画してた懐かしい映画をゆっくりと観て、それから…
皆が一斉に席を立つ。どうやら講義が終わったようだ。隣の川上くんは次の教室の移動に時間かかるからと慌ててここから去って行った。
私も次の教室に向かうため、配られたプリントを鞄に仕舞おうとするとそのプリントに新たな文字が追加されていた。
良かったね
そう、書かれていた。彼が言ったとおり、三十分はあっという間だった気がする。本当に良い友達を持った、と唇をさらに緩ませて口笛を吹くとか鼻歌を歌い出すとかしそうだ。埃の舞った教室を出て私は次の教室へ向かう。
今は見えない彼を目の前に現しながら