雨の匂いに混ざって溶けて消えて
黒色の長い髪をはためかして苗字はここにいた。空は低く雲が広がっていて仄暗い。辺りの空気はどんよりとしていて湿り気を含んでいる。
苗字は無表情と呼ぶにはあまりにも傷々しい無表情で空虚を見つめていた。
「辛気臭せえ面してんじゃねーか」
寂寥感が僅かに滲み出ている背中に声をかけるが返事はない。しかし数秒後、ちらりとこちらを顧みて「倉持、」と小さく口が動いた。
苗字は空を仰いだ。俺が苗字に一歩近付くと、それに気付いた苗字は今度は身体ごと振り向いて、少し錆びた鉄臭い古びた鉄骨の柵に背中を預けゆっくりと口を開いた。
「授業、始まるよ」
「お前は知らねーと思うが次の授業は自習だ」
あっそとさぞどうでもいいと髪をかき上げて再び宙を見つめた。
むわりと湿った風が流れて髪が靡く。自分とは違う柔らかな指で髪をそっと耳にかけて薄く微笑んだ。たったそれだけの仕草なのに、一々画になってしまう苗字に目が離せなくなっていることに気付いて小さく舌打ちが漏れ出る。
それが青空の下だったらより綺麗に映えたのだろうが、生憎空は仄暗い渦を描いている。
ぬるくて重たい空気を吸う。雨の匂いが濃くなったと感じた瞬間、ふいに、ぽつりぽつりと冷たい粒が鼻先に散る。思わず上を仰ぐと空から無数の光が落ちてきていた。
やはり天気予報は侮れない。今朝食堂で流れていたニュースで降水確率八十パーセントと言っていた。
先ほどから空虚を見続けている苗字に「おい、」と声をかけると空気が震えたような気がした。
「雨、降ってんぞ」
「うん、知ってる」
次第に雨音は激しくなり、小さな物音はかき消される。
「入れ」
手に持ってたビニール傘を開き、苗字に差し出す。自分でもこんなことするような柄じゃないこと重々承知だ。教室で苗字が居ないことに気付いた俺は、教室を出てすぐにビニール傘を引っ掴んで此処に来た。何となく、苗字が一人で泣いている気がした。
差し出された傘を意外そうに見詰めてから、苗字はやんわりと首を横に振った。
「濡れたい気分なの」
雨音に溶け込んでしまうほどに弱々しい声だった。
雨粒がパラパラと傘に落ちる。俺だけ傘に入ってるのも変な気がして苗字に倣って濡れてみることにした。傘を畳む。雨粒が服に吸い込まれるようにして体を濡らす。いつもは不快で嫌いな雨も今なら赦せる気がした。
「…倉持、濡れるよ」
「お前に云われたくねーよ」
「風邪ひいちゃう」
「ひかねー」
「バカだもんね」
「てっめぇ。黙らせんぞ」
「何? 襲われちゃうのかな?」
「……」
「ふっ、冗談だよ。倉持、顔怖いよ」
「お前が変なこと云うからだろーが」
お互いにこれ以上被ってもたいして変わらないくらいにずぶ濡れだ。苗字は雨と同化してなんだかそのまま消えてしまいそうだった。長い髪が頬に張り付いていた。雨に濡れた頬にそっと指を這わす。その時、苗字は濡れた虚ろな双眸をゆっくりと瞬いた。その瞳の奥に映された俺は憎らしいほどに無表情だった。
「私、御幸じゃなくて倉持を好きになればよかったね」
ぱっと手を離す。冷たいのにどこかあたたかい柔らかな熱が、指先から早く消えてくれればいいと願いながら。
「は……、頭でも打ったか」
「そう思う?」
「そう思いてえ」
「そっか」
いつもより少しだけ優しく笑って放つあまりにも残酷で意味のない言葉に、喉の奥で笑いが込み上げる。そして声帯を震わせ口から出てきた言葉は、苗字を罵倒するものばかり。
そんなこと云われたら一番俺が報われないことを知っているくせに苗字は云う。性悪にもほどがある。
けれど、そんな苗字に優しい言葉をかけることも、慰めることも、抱き寄せることもできず、その眉尻を下げてへらりと笑った綺麗で哀しい彼女の顔をただ見つめるだけだった。
長い睫毛をふるりと一回震わせると、乗っかっていた雨粒が頬に一筋流れた。まるで、苗字が泣いているように見えた。
断続的に降り注ぐ雨は、辺りの輪郭を滲ませて世界の境界線を曖昧にさせる。
雨音は止むことを知らない。
苗字と俺の心は、ずっとさめざめと車軸のような雨が降り続ける。
あーあ、アイツなんかやめて、ほんとにこのまま俺に惚れちまえばいいのに。
俺達の距離は変わらないまま、時だけが過ぎていく。