ハリネズミは珈琲がお好き
開け放たれた窓から入ってくる澄んだ空気に目が覚めた。朝御飯を食べて、食器を洗ったり、洗濯物を洗ったりしていたはずなのに、いつの間にかソファでうとうとしていたらしい。
身に覚えのないタオルケットが全身を包み込むように掛けられていた。きっと彼が掛けてくれたのだろう。その優しさに私は胸の奥から温かいものが溢れてくるのを感じて、タオルをぎゅっと握った。
「あ、起きた?」
そう問うた彼の声がすると同時に、珈琲の芳ばしい香りが鼻腔を通過する。良い香りに頬がゆるんだ。
「はい、これお前の」
ソファの上でタオルケットにくるまっていた私に手渡されたのは湯気をぽわぽわと漂わせているカフェオレだった。
「ありがと」と受けとると、その反応が意外だったらしく彼はメガネの奥の目を丸めた。「デレ期?」と本当にびっくりしたように呟くので、心外だなあと思いながら「そうだよ」と答える。彼は「珍しいこともあるもんだ」と喉の奥で笑ってから、私の隣に腰掛けてスポーツ新聞を広げた。
私はそんな彼の隣で、湯気の立つカップにふーふーと息を吹きかける。私は猫舌なのだ。
「ねぇ、これ砂糖入ってる?」
そう問うと、彼は新聞から顔を上げた。
「匙三杯分入れた。足りねえ?」
「あ、そうなの? まだ入れてないかと思って」
「今回は忘れなかった。でもよくそんな甘いもん飲めるよな」
「おいしーよ」
「ほどほどにしとけよ。糖尿病になったらシャレになんねーから」
「心配性だなあ」
ふふふ、と笑いながらティースプーンでくるくるとかき混ぜる。ざらざらと底に溜まっていた砂糖がゆっくりと溶け出したのがわかった。そしてカップに口をつけた。砂糖の割合は文句の付け所がないくらいにほどよい加減である。牛乳と砂糖のまろやかな甘さと珈琲の独特のほろ苦い味が口一杯に広がった。自然に笑みが零れた。
「ちょうどいい」
「そっか」
彼は安心したように目を細めて、再び新聞を読み始めた。
私はそんな彼をじっと見つめながらちびちびとカフェオレを飲む。
高校の時からずっと眺めているはずの顔なのに、未だにかっこいいなあと思う。くっきりとした目鼻立ちに形の良い唇、きりっとした太めの眉の下には綺麗な瞳。正直、女の私にもどれか一つ分けてほしいくらいだ。
彼は私の視線に気付かない振りをして、ローテーブルに置かれたマグカップを持ち上げる。そして苦そうな黒い液体をずずっと啜った。再びカップをテーブルに置いて、ぺらりと新聞を捲る。その動作一つ一つが洗練されていてついつい見惚れてしまう。
ぼんやりと眺めていると、彼とふいに視線がかち合った。
「何?」
彼は小首を傾げて問うた。そんな可愛らしい仕草も許してしまえるくらいに彼の容姿は整っていた。素直に「かっこいいなあと思って」と言うのも何だか躊躇われて、不自然にならない程度に彼から視線を逸らして「何もないよ」と答えた。彼はふーん、と相槌をうち、再び視線を新聞に戻したのを私は横目でちらと見た。何となくその様子が面白くなくて、ソファーに転がっているクッションを胸に抱き寄せて顔を埋める。
普通にしてるだけで絵になる男なんて嫌いだ。
そしてデレ期短くてごめん、と心中で呟いた。
彼とは高校の時からの付き合いだが、それはそれはモテた。自分の嫉妬が追いつかないくらいにモテていた彼に私がもう疲れてしまって、別れようと切り出したこともあった。だが、「別れたくない、好きなのはお前だけだから信じてほしい」なんて殺し文句を真摯に言った彼に、私はすでに離れることなど考えられなくなっていた。そして彼は女の子を選び放題なのに、あの頃と変わらず、ずっと私を愛してくれた。絶対なんか無くても、きっとこれからもそれは変わらないのだろうなと私は真っ暗な視界の中で思った。
暫くの間、クッションに顔を埋めたままでいると、前からトントンと肩を軽く叩かれる。
私がぼやぼやと思考している間に、彼は既に新聞を読み終えて、仕事に行く準備もできたのだろう。行ってらっしゃいと言って送り出さなければと思うのに、ここで素直に顔を上げるのもなんだか癪で無視をしてしまう。可愛くないなあ、私は。
「名前ちゃーん、拗ねんなって」
明らかに私の機嫌をとるような声音だ。それでも私は何故か意固地になってしまって顔を上げずにいた。彼はそんな私を見て小さく笑って言う。
「なあ、さっきからそんな可愛い仕草してっと朝から色々したくなるだろ。何もされたくなければ今すぐに顔をあげろよ」
ちょっと気を引こうとしていた自分がいい加減馬鹿馬鹿しくなってきた。
彼の言う通りにそろりと顔をあげると、思ってたより近くに一也の整った顔があった。
びっくりして瞬いている間に、額に柔らかい感触。遅れてちゅっと優しいリップ音が響く。彼はゆっくりと離れて口を開いた。
「じゃあ行ってくる」
「うん。あ、今日中継あるんだっけ? 観てるからね」
「頑張らねーとなあ。名前、無理せずじっとしてろよ」
「うん、わかってるよ」
いつもの台詞に小さく笑うと彼は目尻を下げて微笑んだ。そして私の目を見て行ってくる、と言い、少し膨らんだお腹をそっと撫でて、行ってくるなー、と普段とは比べ物にならないくらいに甘ったるい声で言う。
ああ、この生活も後3ヶ月したら変わるのかと思うと少し嬉しく、少し寂しい。