あなたはわたしの光なのです
夜遅くに、久々に電話が鳴った。その着信音は待ち望んでいた彼からのもので、私は早く出たい一心で闇雲に携帯が鳴っている方へ手を伸ばして場所を探る。コツり、と指先が携帯に当たった。私はすぐに引っ掴んで左端の受話器ボタンを押す。
「……もしもし、名前?」
彼の声を聞くだけで胸に嬉しさが込み上げる。 互いに久しぶりと言い合って、近況報告をした。そして名残惜しいなと思いつついつものように切ろうとすれば彼が思い切ったように「今度の土曜日、」と切り出した。私は続きの言葉をじっと待つ。
試合後になるんだけど、昼過ぎからオフになる。だから俺と会ってくれない?
私は二つ返事で頷いた。
こちらに駆けて来る気配を感じて、私は右手に持つ折りたたみ式の杖を片付けた。今日はもうこれは必要ないだろう。荒い息遣いにほんの僅かに彼の声が混じる。私はそれを聞いて確信した。彼がここにきたのだと。彼は荒くなった息を整えるように深呼吸を数回繰り返して、私の傍に立って口を開いた。
「久しぶり。来てくれてありがとな」
「これぐらいなら一人で来られるよ」
「そっか」
彼は柔らかい声で私を出迎え、私の両手を壊れ物を扱うかのようにそっと取った。固くてゴツゴツした大きな無骨な手。そんな彼の努力が全て詰まっている手が大好きだ。
私はその手を確かめるように触ってから、彼の顔に触れようと闇雲に手を伸ばすと、彼は私の手首をやんわりと掴んで動きを止める。止められた理由がわからなくて首を傾げていると、彼は私の胸中の疑問を掬い取って「メガネ外してた」と答えた。彼は掴んでいた私の手を自ら顔に持っていく。思ってたより近くにあった顔に驚きつつ、私は彼の顔を構成する鼻や口、目、耳、頬、などを一つ一つゆっくりと手のひらでなぞる。その間、彼は「くすぐってぇ」と小さく笑いを洩らした。
最後に、彼をこの目で映したのは小学校六年生の時だ。あれから五年も経っている。きっと顔つきも体格も何もかも変わったのだろう。中学二年生の頃には、いつの間にか私の頭上から彼の低い声が降ってきていた。ああ、きっと私の中の彼とは違う姿になっているのだろう、と思う度に、この目で彼の姿を見たいと叶わぬ願いを抱いてしまう。だから、彼のその変化を少しでも感じ、頭に今の彼を思い浮かべるために、私は彼に会う度にこうやって触れて確かめるのだ。
「一也、前より逞しくなった?」
「そうか? 俺はわからねえけど、名前がそう言うならそーなんだろうな」
私が触れていた頬が持ち上がった。彼は笑っている。
「名前、俺汗でべっとべとだから後で手洗っとけよ」
「そんなの、平気。急いで来たんでしょ?」
「そりゃあ、久々だし急ぐのが普通だろ」
「嬉しい」
私もつられて笑うと今度は彼の指がそっと私の瞼に触れる。自然と目を閉じた。そして彼は私と違って、指の腹を撫でつけるように触れた。私は彼のその手つきに胸がむずむずとこそばゆくなって顔に熱が昇ってゆくのを感じた。「名前、顔真っ赤」と喉の奥でくつくつ笑う彼に「うるさい」と素っ気なく言い返す。すると今度は「真っ赤な顔で言われてもなー」と声を立てて笑った。言い返そうと顔を上げると、鼻と鼻が衝突した。いつの間にやら、顔が近くに寄せられていたらしい。その衝撃に驚いて見上げたままいると、おでこにこつんと彼の額が当たった。もう顔も火照って熱いはずなのに、おでこからじわじわと更に熱が広がった。
「あのさ、」と彼は口を開いた。顔に彼の吐息がかかる。それはあたたかくて、どこまでもやさしい。
「前にも言ったけど、」
彼の少しだけかさついた形のよい唇が動く。
「お前の眼は、俺の。俺の眼はお前のだからな」
彼の言葉に息を呑む。
それは私がすべての色彩を無くしてしまい、言い様のない絶望に胸を苛まれているとき、彼が私に言ったのだ。
“名前の見るもの全て、これからは俺が見る。だから、俺の眼は名前の目だ”
体の奥深くにあった氷塊のような蟠りが一気に溶け出して、見えもしない眼前に一点の光をみたような気持ちを覚えたのだ。その光はあれからずっと私の胸の中で煌々と灯り続けている。何があっても、この光が私を導いてくれる。
あのとき、私は一也に救われたのだ。何もかも。
「うん。一也の見るものは、全部私のもの」
私は言葉を噛み締めるように言った。彼が今どんな表情をしているか、私にはわからない。それでも、はっきり分かることは彼は今も昔も私に対する想いは変わっていないのだということだ。それだけで、私は充分に嬉しかった。胸が苦しくなるほどに嬉しいのだ。
「なんだか私ジャイアンみたい」
「じゃあ俺はのび太か」
「一也は辛辣なドラえもん!」
「なんだそれ」
小さいとき一緒に見てた番組の話で盛り上がる。ふと、あの頃の景色が蘇った。あのときの匂い、テレビの音、一也が笑う声、メガネの奥に光る綺麗な瞳。
ほら、やっぱり変わらない。
一也と私の関係は変わらないのだ。
「じゃあ、ぼちぼち歩くか」
一也は私の手を取って、右手を肩に左手を彼の左手と絡めた。
正直、もし目が見えたらと今でも考える。でも、もしもの数だけ虚しくなることを、私は知っている。だったら、彼が、一也が言うことを信じて私は生きていくと、そう、決めたのだ。
彼が見る景色が、私の景色なのだ。