- もう、とっくに -
さてさて、そろそろ寝る準備でもしようかと着替えている最中に電話が鳴った。頭にTシャツを引っ掛けた中途半端な状態のまま、音の鳴る方へと歩きながら手探りでスマフォを見つける。服の中で煌々と光る画面を見てみると、そこにはなんと“御幸一也”という文字が浮かんでいた。今までメールをしたり、一方的に手紙を渡したりしているが、電話でのやりとりはしたことなかったから、一瞬自分の妄想が作り上げた幻覚なのかと思った。が、どれだけまばたきを繰り返してみても、スマフォの画面には相変わらず“御幸一也”の文字が映し出されていて、思わず喜びで「ええええッ!」と声が出てしまった。下半身はショーツで上だけTシャツを被っている今のわたしはとてもまぬけというか、客観的に見てもただの変態だと思われるだろうが、自分の部屋だから別に気にする必要はない。欲を言えばこの画面に浮き出ている “御幸一也”という文字をスクショしたいという衝動に駆られるが、一刻も早く電話に出なければという気持ちが勝る。とりあえず、Tシャツに首だけを通して、通話ボタンを押した。実際にこの頭の中で繰り広げられた葛藤は、実質数秒にも満たなかったと思う。
「も、」
「もしもしっ! 御幸くん!? こんばんは!! 苗字です!!」
嬉しさが募りに募って、御幸くんの言葉を遮り、勢いよく喋ってしまう。だって、あの御幸くんからの初電話だ。御幸くんの息遣いがスマフォのスピーカーを通じてほぼゼロ距離で感じることができるのだから、興奮するなと言うほうが土台無理な話である。なんなら全部録音しておきたいくらいだ。くくく、と忍び笑う御幸くんの声が回線越しで耳朶を打つ。普段よりもずっと近くに感じる声に心臓がもちそうにない。ドキドキしすぎてありとあらゆる場所の血管が破れて死んでしまったらどうしよう。死因:御幸一也の声帯。……うん。それはそれで幸せなのかもしれない。
「夜もそのテンションで疲れねえ?」
「御幸くん限定のテンションだから問題ないよ。電話できるのすごい嬉しいけど、急にどうしたの? 用事?」
初めての御幸くんからの電話で浮かれていたけれども、きっと何か要件があって電話したのだろうことぐらいはわかる。週末に出された化学の宿題がなかなかの難問だったからそのことについて質問だろうか。それなら納得だ。メールのやりとりよりも口頭の方がはるかに伝えやすい。自分なりに御幸くんが電話してきた理由を解釈して化学のノートを引っ張り出そうとカバンを漁っていると「俺、苗字さんと付き合ってると思ってたんだよなー」と実にのんびりとした口調でとんでもないことを言った。
はてはて、もしかしてわたしは幻覚の次に幻聴も始まってしまったのだろうか。カバンに突っ込んでいた手を止めて、混乱した頭でなんとか返した言葉は「ツキアッテルトオモッテタ?」とそのまま片言に繰り返していた。
「えーと、御幸くんや、ちょっと待って。頭の中、整理するから……」
「どうぞ」
一秒、二秒、間が空く。付き合っていると思ってた、ということは、どこかのタイミングでわたしと御幸くんは恋人同士であり、わたしからの一方的な恋愛感情ではなく、御幸くんもなにかしらの理由でわたしのことを想ってくれていたと解釈してもいいのだろうか。けれど、今までわたしは幾度となく気持ちをぶつけたけれど応えてくれた素振りは一回もなかったはずだ。御幸くんの言っている意味をそのまま考えても言葉の意味そのものが捉えらず、沢山の疑問符が浮かび上がるばかり。どのくらい空白の時間があったのかわからないけれど、たっぷりと三分くらいは考えたと思う。それでもやっぱり、よくわからなかった。
「……御幸くん、考えれば考えるほどわかんなくなってきたよ」
「あー、そっか。俺は付き合ってるつもりだったんだけど、言葉が足りなかったよな」
御幸くんは苦笑い混じりにまた言った。それから倉持になんか奢らねーと……、と独り言のように小さく付け足した。そこでなんで倉持が出てくるのだろうと考える隙も与えず、御幸くんは「なあ、これから会える?」と訊ねた。
学校から徒歩五分圏内のわたしは余裕で会いに行ける。なんなら野球部の寮の近くなら三分ぐらいで着く。御幸くんの虜になってから、よっぽどの予定がない限り青道で行われる練習試合は大体観に行っている。
「……今、わたし、上半身は首にTシャツ引っ掛けてて、下半身に至っては下着なんだけど、会いに行っていいならすぐ会いに行くよ!」
今の自分の状況を伝えると、しんと静まり返った。もしかして回線が切れてしまったのではないかと不安になって「も、もしも〜し、御幸くん? 繋がってるー?」と恐る恐る尋ねてみれば、「はっはっ!」と少し遅れて快活な笑い声が響いた。
「いや〜、さすがに最低限の服は着てこいよ。苗字が警察に通報されてもいいなら別だけど」
「うん、それは世間体的にもすごく困る」
「だろ? もしあれだったら家の前まで行こうか? 外も暗いし」
「大丈夫! ほんとに近所だから」
「わかった、待ってる」
うん! と返事をするとじゃあと電話が切られる。今のやりとり全てが夢なんじゃないかと思ったけど、手の甲に爪を立てれば痛みはあるし、通話履歴にはちゃんと御幸一也という文字が残っているので夢ではなく現実だ。
被りかけのTシャツに袖を通して、床に落ちていた寝間着に近いペラペラな短パンを履く。格好なんて気にしない。とにもかくにも早く会いに行って御幸くんの言っていた意味を確かめなければならない。足にサンダルを引っ掛けて家を飛び出す直前、母親に「あんたどこ行くの〜?」と呼び止められたが「恋人になりそうな人に会いに行く!!」と早口に言うと「はいはい、気をつけて行ってらっしゃい。付き合うことになったら今度紹介してね〜」と暢気に送り出した。わたしの両親は夜に子がどこへ行こうがあまり構わない、基本的にゆるい家庭なのだ。
まっすぐな道をひた走る。サンダルと足の裏の間には砂や小さな石ころが自由に這いまわって不快極まりないが、一分一秒が惜しいので気にしてられない。もうすでに日は沈んでいてあたりは暗いけれど、空は雲ひとつなく、月明かりが眩い夜だった。暫くすると、こちらに向かって歩いてくる人影があった。その人影はジャージにTシャツとラフな格好をした御幸くんで、制服やユニフォームを着た姿の御幸くんしか見たことがなかったからとても新鮮だ。
御幸くんは遠くにいるはずなのにわたしにすぐ気付いて、片手を小さくあげた。たったそれだけの動作で、わたしの胸はときめいて苦しくなってしまうのだから困ったものだ。ぐっ、と両手で左胸を押さえると近づいてきた御幸くんは「大袈裟」と声を上げて笑った。
「走らせてごめん」
「このくらい、別に大したことないよ!」
足の裏にある砂利を払って、首を振る。御幸くんに会うためならどんな時間だって急いで会いに行くに決まってる。それに、付き合ってるつもりだったと語った御幸くんの真意を早く知りたい。
「あの、御幸くん。ツキアッテルトオモッテタ、とは……?」
さっそく本題に入ると御幸くんは「あー……、えーと……」と気まずそうに頬をかきながら次に繋げる言葉を探した。
「下心ありで友だちになりませんか? って苗字さんに言われた時、別にいいけどって答えたよな?」
その時のことは一言一句に至るまではっきりと覚えている。それがきっかけでわたしの御幸くんへの惜しみない愛を披露することになったのだから、忘れるはずがなかった。
「もうそこから、返事した時点で、俺の中では流れで付き合ってるのと同じもんだと思ってたんだ」
「なる、ほど……?」
つまり御幸くんは、わたしが過去に言った“下心ありで友だちになりませんか?”という言葉を “付き合うことを前提に友だちなりませんか”と捉えたわけ……だ。え? そんなことある? ほんとに? 内心首を傾げる。
「納得してねー顔だな」
「御幸くんマスターを自称しているわたしでも、そこはわかんなかったなあ。だってチューしたいって言った時も結婚したいって言った時もほぼ無反応だったし、脈ないのかもしれないなって考えたこともちょっとあるんだよ?」
無反応でも、無理と断られても、それでも御幸くんを追いかけるのをやめれなかった。ずっと御幸くんを見ていたし、御幸くんにたいして好きっていう気持ちを抑えられなかった。
「俺、ちゃんと苗字さんに惹かれてるよ」
さらりととんでもないことをおっしゃる御幸くんに、呼吸をすることを忘れてしまいそうになる。
「ちょ、ちょっと待って!! なんか急に需要と供給のバランスが崩れてて心臓が持たないんだけど!? バクバクが止まらない…ッッ! このまま死ぬかもしれない!」
「えー? でもこれからは慣れてもらわないとな」
「慣れる気がしない……っ!」
「照れてる苗字さん、新鮮でかわいい」
「うわあ、軽率にそういうこと言うじゃん!? 性格悪い!」
「はっはっはっ、そりゃどーも」
「褒めてない! でも、」
「でも?」
「そんな御幸くんが、好き。……大好き!」
「知ってる」
からからと御幸くんがとなりで笑う。
「苗字がなりふり構わず好き好きいうから絆されたかもしれないって思うかもしれないけど、例えばの話、俺がこの顔じゃなくても、野球をしてなくても、苗字なら変わりなく付き合ってくれそうって思ったんだ。表面だけじゃ俺を見てくれてるっていうか、どう言えばいいのかわかんねーんだけど」
「そっか……、うん、そっか。えっと、じゃあ、あの、これからも末永くよろしくお願いいたします」
手を前に差し出してお辞儀をする。そういえば、御幸くんに友達になってくれませんかと頼んだ時も、同じようにお辞儀をして手を差し出したんだ。
御幸くんが微かに笑う気配を感じて顔を上げようとするが、その前に手が温もりに包まれた。
「こちらこそ」
穏やかな声音に思わず顔を上げると、力の抜けたありのままの笑顔がそこにあった。わたしを見つめる御幸くんのその表情は今までに見たことないくらい優しかった。大きな両手に包まれた熱と相俟って顔に熱が集まる。
「……どうしよう、嬉しすぎて昇天しそう。死因、嬉死」
「おいおい」
「なんか鼻水出てきた」
「……苗字さん、それ鼻水じゃなくて鼻血。悪りぃけどティッシュ持ってねぇからタオルハンカチで我慢して」
「え、うっそ!? ……うわ、ほんとだ。血の味がする……、御幸くんのハンカチが血染めに……っ! てか鼻血見られるのは恥ずかしい」
「もう見たことあるけど」
二度目の始まりはなんとも間抜けだけれど、わたしたちらしい始まり方にお互い目を見合わせて笑った。近いけれど家まで送ってくれるという御幸くんの言葉に甘えて、御幸くんのハンカチで鼻を摘んで帰った。