きみのためなら
ふと意識が浮上する。幾度か瞬いてからカーテンの方へ目を向けると、まだ薄暗く光が少しずつ滲んでいく時間だった。どうやら仕事から帰ってきてそのままソファで眠ってしまったらしい。歯も碌に磨かずすぐ眠ったから口の中がどうにも気持ち悪い。肩までしっかりと掛けられた布団の心地よい重さから抜け出す。そろりと足を下ろすと、なにかに触れた。ソファの下を覗き込むと名前が床に横たわっていた。
「名前?」
呼んでも返事はない。一瞬肝を冷やしたが、よくよく見てみると肩が微かに上下に動いている。寝息をたてていることに安心して強張った全身が一気に弛緩していく。はあ。一息つく。名前の手足に触れるとすっかり冷えていて、自身に掛けられていた毛布をそのまま名前に掛ける。そして口の中を軽くゆすいですっきりとさせてから、名前の膝裏と肩甲骨の下に両腕を滑り込ませてゆっくり持ち上げベッドまで運んだ。意識のない人はとても重い。体を常日頃から鍛えているけれど「名前、重い」とつい口を滑らせる。すると「…ん、わるぐち」と小さく呻き声があがった。「起きた?」と耳元で囁いてみたけれど、腕にかかる重さはなにも変わらなかったのでやはり眠っているのだろう。
昔から名前は自分自身を後回しにしてしまう傾向がある。だから俺には布団が掛かっていたけれど、彼女には掛かっていなかった。おそらく俺が眠っているのにつられてそのまま寝てしまったのだろう。仕方のないことだ。でも、そこで自分に布団を掛けるという選択肢は彼女の中には一切なかったはずだ。そのことに名前は気付きもしない。他人に向けるベクトルと自身に向けるベクトルの大きさが狂っているのだ。
「風邪ひいてもしらないよ」とため息を洩らしつつ、名前をベッドに降ろした。そして彼女の心臓がある場所へ耳をそっと押し当てる。瞼を閉じて、ゆっくりとした鼓動を聞く。
普通の人よりもずっと弱い彼女の心臓は、今日も彼女の全身へと一生懸命に血液を送り込んでいる。その当たり前のようでいて奇跡の連続が続いていることをしっかりと確認してから、彼女の首元まで布団を掛けてやる。もっと自分を大切にして欲しいといつも思っているのに、なかなか伝わらないこの現状が酷くもどかしい。実際に伝えれば「灼にだけは言われたくない」とそっぽを向いて拗ねてしまいそうだ。きっと炯にもこの気持ちを吐露すれば「灼には言われたくないんじゃないか?」と苦笑されることだろう。そんな二人を容易に想像できてしまって、ちょっと笑ってしまった。職業柄、心配させていることはわかっている。でも名前の方がよっぽど危ういのだということをそろそろ自覚してほしいものだ。
俺を心配させた罰として彼女の鼻を摘む。ううっと息苦しそうに眉根を寄せて顔を顰めた。「ブサイク」と笑ってから指を離して、その鼻先に口付ける。
名前が寝ていることをもう一度確認してから部屋を出る。シャワーを浴びて身なりを整えるとお腹が空腹を訴え始めた。そういえば夜ご飯を食べていなかった。リビングへ戻ると、テーブルの上には夜ご飯とは別に朝食がラップに包まれた状態でもう準備されていて、その側には見逃してしまいそうなほど小さなメモが置いてあった。
いってらっしゃい
彼女独特の丸くてやわらかな字で書かれたそれに返事をする。
「いってきます」
食事を済ませ歯を磨き家を出る。光であふれている外の眩しさに思わず目を細めた。他人を優先し、自分を顧みず蔑ろにしてしまう同居人の平和を守るために、今日も頑張るとしますか。