窒息しそう
眠りにつこうと目を閉じても、心臓の音が煩くてなかなか意識が手放せない。耳の奥でも、首の根元でも、腕や足の付け根にもおおきな心臓が付いたみたいにどくどくと血液の脈打つ音が聞こえる。一回気になり始めると、意識からその音を消すことができず、眠ることを諦めてベットから降りた。人生で人間が寿命に至るまでの心拍の数はあらかじめ決められていると噂で聞いたことあるけれど、それは何回までなのだろうか。そんなどうしようもないことを頭の中でぐるぐると考えた。もうすでに自分の人生の殆どの心拍数を刻んでいる可能性に気づいて、一人でこっそりと苦笑する。
「眠れなくなった?」
足音をなるべく立てないように細心の注意を払って車の傍まで来たはずなのに、灼は私がガレージに足を踏み入れた時点ですでに気づいていたらしく、後部座席で横たわったまま車の扉を開けて待っていた。起こしてしまって申し訳ないと思うよりも、嬉しい気持ちが勝って「うん」と舌足らずな子どものような声が出た。すると灼は「そっか」と肯いて車から降りようとする。ちょっと顔を見て安心したかっただけだよと慌てて車に押し戻そうとしたけれど「今日は少し冷えるし、久々にちゃんと布団かぶって横になろっかな」とゆるく微笑んで、私の頭にぽんと安心させるようにてのひらを置いた。そこから広がるあたたかさに私のささやかな抵抗はすぐに溶けてしまって「……お言葉にあまえます」と灼のTシャツの裾を無意識に掴んでいた。
一部屋だけ、昔ながらの畳の部屋がある。押し入れから寝具一式をふたつ分引っ張り出して敷く。そこに横たわって、布団を頭まですっぽりと被る。暫く使ってなかったから、ちょっとだけカビ臭い。けれどこのどこか昔懐かしい香りに包まれながら目を瞑るとすぐ眠れるかもしれない。一つだけ深呼吸をしてから目を瞑る。心臓の音は確かに聞こえるけど、さっきよりは随分とましだ。けれど耳元で脈打つ大きな音だけはずっと消えなかった。布団から頭を出して、寝返りを打って、また目を瞑る。
「名前、やっぱり眠れない?」
しんとした声に目を開けると、灼の二つの瞳が真っ直ぐこちらに向けられていた。小さく肯くと、灼が「仕方ないな〜」と唇をゆるめて、私の布団をめくり中に入ってきた。二人分の熱が、布団の中に満ちる。彼の胸まで頭をゆっくりと引き寄せられて、背中をゆるゆると撫でられる。耳を彼の胸に押し当てると、灼の心臓の音が聞こえる。時折背中越しで聞いてる心臓の音よりも、大きく感じる。ゆるやかに脈打つその音が、私の心臓の音と次第に重なって、灼と一緒にちゃんとこの世界に生きていることを実感した瞬間、言うはずも無かった言葉がいつの間にか口から零れ落ちていた。
「好きだなあ」
それは、私の胸の奥底でずっとあたためられていた感情だった。この世界に生まれ落ちた時から、短い蝋燭に灯る炎のような存在の私が、まだ先の長い灼に告げるべき感情ではないのかもしれない。けれども、一度口に出してしまうと堰き止めることができなかった。灼の胸に顔を埋めながら、もう一度「好きだなあ」と繰り返した。背中を撫で続けていた手の動きが一瞬だけ止まったけれど、すぐにまた再開され、後頭部にまわされているてのひらに力がぎゅっと込められた。
「あらたのことが、好き」
私の小さな声は灼の胸に吸い込まれていく。
「うん」
二人ぶんのぬくもりと心臓の音に、からだ全身やさしく包まれて、「おやすみ、名前」とさざ波のように響いた声を最後に意識を手放した。