91 きらい
侑と付き合ってからそろそろ十二年になる。大学卒業してから一般企業に勤めて五年経つが、仕事も順調で、大きなタスクも任されるようになってきた。もう一人でも生活もできるし、なんなら一人や二人は養えるぐらいのお給料は一応貰っている。
「侑、結婚しようか」
そんなことを朧げに考えながら彼のお家で夜ご飯を食べていたら、ほろりと口から零れ出ていた。ブリの照り焼きの身をほぐして口の中に入れる。甘過ぎないタレがよく染み込んでいて我ながらとても美味しい。さてもう一口、と箸を伸ばして再び口に入れようとして、ふと目の前の相手を伺うと、ぽかりと口を開けたまま放心していた。とても間の抜けた顔だ。世間で持て囃されているイケメンとはとても思えない。でもその顔は、間抜けを通り越してもはやかわいく見えるのだから、なんだかずるいなあと思う。ご飯冷めちゃうよ? と促しても目をまんまるにして微動だにしない。
「あれ、もしかして聞こえてなかった? じゃあもっかい言うけど、けっーー」
「おまっ、ホンマそういうとこ!」
わたしの言葉を遮って、お箸で勢いよくこちらを差しながら顔を真っ赤にさせている。お箸で人を差さないの。そう咎めても彼は気にもとめず言葉を続けた。普段の余裕綽々とした笑みを浮かべている彼からは想像できないくらい余裕のひとかけらも見えない。
「そういうとこほんっっまキライや! けどめっちゃ好きやわ!」
「え? どっち?」
矛盾した言葉に思わず首を傾げる。
「好きって言うとんの! わかるやろが!!」
「ブチ切れじゃん」
あまりにも面白くてけらけら笑っていると彼は鼻を鳴らしてむすっと唇を歪めた。「子どもみたい」と笑みを隠さずに突っ込むと「春が悪いねん」とそっぽを向く始末。そんなのますます子どもみたいだなと思ってしまうではないか。
箸を置いて両手で頭を掻き毟り「あーもう! うまくいかん!」と呻いて席を立ち、そのまま寝室へと行ってしまった。「あれ? ご飯食べないの?」と訊ねても「うっさい」と素気無く返される。ものすごくご機嫌斜めだ。抽斗を開け閉めする音だけが響いて少し時間が経ってから侑はまた目の前に座った。神妙な面持ちに思わず「どうしたの?」と訊ねれば、目の前に置かれた小さな箱。その意味が分からないほど、わたしの頭は呆けてはいなかった。
「……ほんまは俺からプロポーズする予定やったのに」
「えへへ、ごめんね。つい」
「つい、ちゃうわアホ」
不服そうに目を眇めてわざと怖い顔をしてみせるけど、ちっとも怖くない。そしてぶつぶつと小言のように続けた。
「春が俺よりイケメンとかほんま許せへん。来世は俺から絶対言ったんねん。てか、俺が女でシチュエーションもクソもないのにこんなさらっとプロポーズ言われたらそんなんもうイチコロやわ…」
「今まさにそうでしょ?」
得意げに笑って見せると「否定できんなあ」と両肩を竦めながら、わたしの左手薬指に美しい輪を通した。
もうとっくに冷めてしまった夜ご飯を口に運ぶ。けれど左手に嵌められた輪が視界に映るたび頬が緩んでしまって、なにもかもが美味しく感じた。これが幸せの味かあと沁々言うと、今人に見せられん顔してるでと指摘される。そんな彼もゆるゆるな顔なのだから、お互い様だろう。