31 あまくない
「春ちゃん、まだ彼氏いねえの?」
お昼休みの図書室は人が少なく、今は彼女と御幸の二人きりだった。
本を捲る手を止めず、視線はそのままに春は明らかに顔を顰めて「“成瀬先生”ね」とすげなく答えた。
先生という皮を破って出てくる素の春の表情は、学校の先生とはとても思えないほどに愛想の欠片もない。けれど御幸は昔から変わらないその本来の春が垣間見える度に、本当に自分の知っている春なのだと安堵した。
ずっと小さい頃から春ちゃんと呼んでいたから今更呼び方なんて変えるのも可笑しい気がするといくら主張しても、彼女は名前で呼ぶ度に指摘した。直す気なんてさらさらないけれど「はいはい」とぬるい相槌だけは打った。
その唐突すぎる質問に春は応えず、つまらなさそうに白痴と書かれた本を捲る。その彼女の指先は、控えめな薄い桃色で飾られていた。御幸にとってはファッションの流行やおしゃれはよくわからないものの一つだが、春がそういうものにとても敏感で、昔は常に鮮やかな色彩を纏っていたのを知っている。
春は「そう言えば、」とようやっと本から顔をあげて御幸を見る。長い睫毛に縁取られた静かな眼差しに思わず息を呑んだ。
「小さい頃の御幸くんは、わたしと結婚したいって言ってたよ」
昔を懐かしむように目を細めて薄く微笑んだ。
ずっと昔から心の奥底にあった甘くて苦い感情が、喉の奥から迫り上がる。それを堰き止める術を、御幸は持っていなかった。
「それ、今も変わらないって言ったら?」
言葉にしてから、心臓の鼓動がはやくなる。精一杯の強がりで、口元の笑みだけは絶やさなかったけれど、口の中の水分は干からびてしまって唾一つ飲み込むのにずいぶんと時間がかかった。
春はぱちぱちと何度か瞬いた。その音が聞こえるんじゃないかと勘違いしてしまうくらいには静かな空間の中、ゆっくりと本を閉じて腕時計を見る。
「そろそろ休み時間終わるね。閉めるから出ようか」
まるで何事もなかったかのように御幸の言葉をさらりと流した。席を立ち、鍵をくるりと回す。
今までだって、ずっとこうやって躱されてきた。いつまで経っても年上のお姉さんであり、そして今では先生というもっとも遠い存在。その皮を引き剥がそうとしたが、どうやら無理らしい。けれど、待っていたってその差が埋まることはおそらく一生ない。だから、そのままでいい。そのまま、彼女の内側に飛び込むことにする。
「俺、諦め悪りイから」
昔はいつも彼女の顔が斜め上にあったのが、今は下になった。扉を開けようとするその手も重ねて見れば自分より一回りぶん小さい。丁寧に磨き上げられた爪を指の腹で撫でると春の指先が微かに震えた。
「だから、卒業するまで待ってて」
鍵を持ったまま固まった手を包み込む。顔をよく見たかったけど、俯いていてどういう表情をしているのか御幸からは見えない。
「そんな約束はしないよ」
振り返らないまま続けられた抵抗の言葉。けれど、髪の毛の隙間から覗く小振りの耳がほんのりと赤色に染め上げられているのが視界に入り、御幸はひっそりとほくそ笑んだ。